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05.06.17:36

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  • 05/06/17:36

12.10.14:41

八郎の父・雷山(秀寿(ひでとし))

八郎の父は雷山(秀寿(ひでとし))と言い、祖父昌義の長子。

 
 弘化元年(1844年)、35歳で斎藤家の家督を相続し、代々の慣わしにより「治兵衛」を襲名した。号ははじめ柳眉とし、後に雷山と改めた。
 20歳のとき鶴岡荒町の富商三井屋吉の三女であった亀代(当時14歳)と結婚、天保元年(1830年)10月10日に八郎が長子として誕生する。

 雷山は生真面目な性格で昼間は家業に勤しみつつ、文化人でもあった。夜は燈火の下で書を読み独学に励んだという。
 書は特に歴史・文学の類を好み、中でも唐詩選を愛し啓蒙していたため全巻暗誦し、八郎にも学ばせている。また、古法帖を手本として書道を嗜み、書画刀剣の趣味も深かった。八郎の秀才肌は父の影響とも言えるだろう。
 俳諧は庄内飽海郡松山の村田柳支について学んだ。柳支の没後、「見風舎句集」一巻を編み、師恩に報じた。
 斎藤家では客を喜び、雷山が風雅を以って親交し、文通した人物は130人にも及んだと言われる。その書簡を編して「到来集」四巻を執筆している。雅友の中で最も敬服したと言われているのが藤本鉄石だった。
 藤本は、遊学の折、弘化3年(1846年)に斎藤家に立ち寄っている。八郎の祖父・昌義はえらく藤本を気に入り、客人として藤本の面倒見ている。藤本も斎藤家を気に入り、1ヶ月ほど清川に滞在している。八郎(元司)17歳のときで、八郎自身、藤本に強い興味を抱き、藤本との出会いが少年八郎に多大な影響を与え、この後、八郎は立志のもと江戸への遊学を願うようになる。後の清河八郎たる人物を開眼させるきっかけを作ったのが藤本であったのかもしれない。
 
 また、雷山は旅行を好み、庄内の三名湯といわれる田川・湯野浜・温海の温泉、新庄の瀬見温泉などにはよく出かけた。また登山も好み、羽黒山には毎年二度は必ず登ったと言われる。

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