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11.09.00:07

庄内藩について【しょうないはん】

 庄内藩(しょうないはん)は出羽国庄内(現山形県鶴岡市)を領とした譜代大名・酒井氏(徳川家康の四天王の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄)の藩。正式には鶴岡藩(つるおかはん)であり庄内藩は通称である。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を配置した。
 鶴岡市出身の作家・藤沢周平作品「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「武士の一分」「蝉しぐれ」等の舞台である「海坂藩(うなさかはん)」は、この庄内藩がモデルである。戊辰戦争の際に官軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した話は有名である。

●庄内藩の歴史●
 関ヶ原の戦い(1600年)後、現在の山形県の大半を領有した最上氏が元和8年(1622年)3代で改易となり、藩領が4分割された。信濃国松代藩より酒井忠勝が3万8千石の加増を受け、庄内に13万8千石で入封し庄内藩が成立した。藩の領地は田川郡(現・東田川郡、西田川郡)・飽海郡・村山郡から構成されていた。
 庄内平野は米どころで、かつ酒田(現在の山形県酒田市)は北前船の寄港地として栄えたため、財政的に裕福なはずであった。しかし、5代・忠寄は正妻を加賀藩・前田氏より迎え、老中として幕閣の一翼を担い、日光東照宮修理の割り当てと出費がかさみ赤字藩へと転落した。7代・忠徳の代になると借金は20数万両に膨らんだ。ここに酒田の大地主・本間家当主の本間光丘に藩財政立て直しを委任した。光丘は藩士・農民などの借財の一切を肩代わりし、江戸藩邸の支出を抑えるなど出費の無駄を省き、借金の返済計画を立案・実行させた。また、飢饉に備え備荒籾(備蓄米)を蓄えた。お陰で藩財政は好転するようになった。

【三方領地替え】
 天保11年(1840年)8代・忠器の時に藩に危機が訪れる。
 財政が好転し、また実収が20万石ともそれ以上ともいわれる庄内に目をつけたのが武蔵川越藩主・松平斉典である。当時川越松平家は度重なる転封で莫大な借財を抱え、また水害等で藩領内が荒廃し財政が逼迫していた。そこで、内実の豊かな庄内への転封を目論んだわけだが、斉典は11代将軍家斉の第21子紀五郎(のちの斉省)を養子に迎え、養子縁組のいわば引き出物として、当時、大御所となっていた家斉に庄内転封を所望した。このため、松平を川越から庄内へ、庄内の酒井を越後長岡へ、長岡藩の牧野忠雅を川越へという「三方領地替え」という計画が持ち上がった。これに対し、天保12年1月20日(1841年2月11日)庄内藩の領民は江戸へ出向き幕府に領地替え取り下げを直訴した。この行動は本来ならば死罪である。また従来、領民の直訴といえば藩政の非を訴えるものであるが、領民による藩主擁護の行動は前代未聞であり、逆に幕府役人より賞賛された。同年7月12日(8月28日)家斉・斉省の死去も伴い幕命は撤回となった。
(この三方領地替えの撤回は、後に印旛沼堀割工事の際に、懲罰的な御手伝普請を庄内藩が強いられる遠因となった。なお、藤沢周平の小説『義民が駆ける』は、この三方領地替えを農民の立場から描いた作品である。)

【江戸末期~幕末】
 文久3年(1863年)、清河八郎発案のもと、幕府により「浪士組」が募集、結成され、将軍警護の名目で上洛、八郎が強攻に朝廷より攘夷の勅諚を賜り、一部残留浪士(芹沢 鴨、近藤 勇ら後の新撰組メンバー他)を残し京都より江戸の戻る。その後、八郎は暗殺されるが、残った浪士組は、江戸市中見廻りの、庄内藩預かり「新徴組」となる。
 元治元年(1864年)、「新徴組」の江戸市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石に達した。
 幕末、上山藩とともに江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こし、新政府軍による徳川家武力討伐の口実を作った。戊辰戦争では会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなり明治新政府に抗し、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。
 清川口(現庄内町清川:清河八郎生誕の地)では攻め入る新政府軍を撃退。その後新庄を落とし、秋田へ攻め入った庄内軍は家老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、新政府軍を圧倒する。明治元年9月26日(1868年11月10日)東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見て、庄内藩は各地の戦いでここまでほぼ無敗であったものの恭順。12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。
しかし、本間家を中心に藩上士・商人・地主などが、明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が事実上の取り潰しとなったのと比べ庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには西郷隆盛の意向があったと言われ、この後庄内では西郷隆盛が敬愛された。のちに、明治10年(1877年)、西郷を総大将とした「西南戦争」に、西郷への恩義を果たすべく、旧庄内藩士数名が戦地に赴き参戦したという逸話がある。

 明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。
 明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。なお、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。

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12.10.14:47

坂本龍馬が浪士組!?

 文久2年(1862年)に清河八郎が提案した浪士組。この浪士組に坂本龍馬が参加する可能性があったことはあまり知られていない。他に、八郎と親交の深かった、平野国臣、真木和泉、宮部鼎蔵、藤本鉄石、久坂玄瑞など、当時の錚々たる浪士たちが、幕府が取り立てるべき浪士としてリストアップされていた。
 事実、当時の幕府の目付で、最後の箱館奉行を務めた「杉浦梅潭」が記した「浪士一件」という史料(国文学研究資料館所蔵)の中で、浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬や久坂玄瑞をリストアップされている。

 杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)に記されているのが、清河八郎、池田徳太郎、石坂宗順(周造)、内藤久七郎、堀江芳之助、杉浦直三郎、■塚行蔵、磯新蔵、大久保枩之助、坂本龍馬、松浦竹四郎、村上俊五郎、全部で12人。これは浪士取立計画を推進した幕臣・松平主税助が杉浦に提出した浪士名簿である。
その後、文久二年十二月二十日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士の筆頭として、清河八郎の名前が挙げられ、さらに文久三年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちとして、坂本龍馬・平野国臣・真木和泉・間崎哲馬・宮部鼎蔵・西郷隆盛・久坂玄瑞・藤本鉄石など、八郎に関係の深い人物の名前リストアップされている。これも、リストアップは松平主税助であり、八郎との協議があったものと推測される。
 坂本龍馬の名が、浪士取立計画当初から挙げられていることから、八郎と交流の深かった土佐藩士の間崎哲馬は龍馬とも親交があり、間崎から浪士組の計画についての話があったと考えられる。

 文久三年正月二十二日には、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、杉浦梅潭、勝海舟(当時、春嶽を批判していた)、坂本龍馬の四人が同じ船に乗り合わせ、浪士取立計画について議論をしている。杉浦梅潭が記した「経年記略」(『杉浦梅潭目付日記』に所収)に、このとき坂本龍馬との会話も記されているが、会話の内容は不明。浪士組についてどんな議論がなされたのか?その会話の記録は残されていない。

【参考】
◎ 『最後の箱館奉行の日記』
    (新潮選書:1995年)
◎ 『杉浦梅潭目付日記』
   (みずうみ書房:1991年)

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12.10.14:37

二つの意味・・・尊皇攘夷

 尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現で、江戸幕末に革命の旗印になり、各藩や公家または幕府内の過激派の間で熱く論じられた思想である。国の存在の根拠としての尊皇(尊王)と、侵略・侵入してくる外国に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。 
 初めて「尊皇攘夷」という言葉が使われたのは、天保九年(1838年)、水戸藩で盛んだった「水戸学」を成立させた藤田東湖が著した「弘道館記」。水戸学とは、身分の上下について明確にし、天皇という存在を特別視したもの。また、もともと「尊皇」と「攘夷」は全く異なる言葉である。
 江戸時代後期、すでに寛政四年(1792年)に根室、文政七年(1824年)には水戸へ外国船が上陸をしていた。長い鎖国状態だった日本に対外危機意識は薄く、また政治不安も重なり、国情を統制する必要があった。そこで誕生したのが「尊王」の思想であった。古から土地神、日本の国を守る種々の神を祭る儀式を執り行う天皇は最も敬うべき存在であり、その天皇から政治権限を委譲されている将軍も敬い、その将軍を支える諸大名も敬う、というのが尊王思想の根底にあり、国勢強化を目的とし作られた思想ともいえる。
 一方の「攘夷」はというと、言葉だけをみると夷荻をうち払え、というような意味になるが、すでに外国の脅威にさらされていた水戸においては、外国勢力の「攘夷」など現時点での日本では不可能であることは自明の理であった。しかし、かといって外国の侵略に対し甘受するわけもいかず、国力の強化は必然。その為にあえて「攘夷」という言葉を使って人々の危機意識を高めた。こうして生まれた「尊皇攘夷」という言葉の本来の意味は、「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだった。

●「尊皇攘夷」思想の変化
 幕府養護のため成立したこの思想が変化を遂げるきっかけとなったのは安政五年(1858年)の日米修好通商条約調印。時の大老・井伊直弼が調印し、横浜他数カ所を開港した条約である。これにより外国との貿易が行われるようになったが、余りにも不平等なその内容に国勢は悪化の一途を辿った。しかもこの調印に先立ち天皇の勅許を得る必要があったのだが、天皇は最後まで調印を認めなかったのである。「国体を汚す」ことを畏れるのがその真意であったのだが、幕府としては調印を拒否して侵略の憂き目をみるよりは、と勅許を得ずに調印を断行したのである。民衆の立場にしてみれば、幕府が勝手に調印したために自分たちの生活が苦しくなった、のである。幕府を見捨てるのも当然であろう。そういう時代の流れの中で、幕府勢力に対して反感をもっていた外様大名や急進派の志士たちが、今度はその幕府を倒すために「尊皇攘夷」を唱えだしたのである。幕藩体制を維持するために造られた身分秩序の思想であったが、幕府への不満が増幅する中でその本来の目的から路線が外れ、身分秩序のみを主眼に置くようになった。民衆の生活を守るべき立場の幕府であるのにそれが出来ないのなら、その列から外してしまえ、「天皇を立て外国勢力を倒せ」という風に変わっていったのである。それはそのまま「天皇をないがしろにし、うち払うべき外国に開港を行った幕府を倒せ」ということにつながっていった。この思想はあっというまに民衆や下級武士の間に浸透していった。そしてまさにこれが一般的に浸透している「尊皇攘夷思想」なのである。
 つまり、「尊皇攘夷」思想は2種類あるのである。学識高い清河八郎であるので、水戸学の流れを汲む本来の「尊皇攘夷」の思想はもちろん、不平等条約締結後の「尊王攘夷」の意も十分理解していたはず。では、八郎の唱えた「尊王攘夷」はどちらであったのか?

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