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07.28.18:26

佐高信特別公演

  清河八郎顕彰会主催による、山形県酒田市出身、佐高信氏を講師に招いた特別講演会を、7月15日(月・祝)、庄内町余目「庄内町文化創造館・響ホール」で開催しました。演題は「清河八郎の真実に迫る・明治維新と清河八郎」です。
▼ 当日聴講者へ配布した講演会次第です。



 この講演会は、月山を取り巻く5市町村(庄内町、鶴岡市、戸沢村、大蔵村、西川町)が構成メンバーになっている、
月山フォーラムが所管する「月山わくわく活性化事業」の採択を受けて開催したものです。
 事前の申し込み人数は283人、当日会場の受付窓口で記帳頂いた方が45人、合計で328人になっています。それに来賓の皆さん、スタッフの皆さん、合わせて約350人の方に聴講頂きました。
▼ 講演会が始まる前に庄内町が作成した「明治維新に火をつけた男」のDVDが上映されました。



 このDVDは清河八郎について分かり易く解説しております。是非ご覧ください。(上映時間11分47秒)       
                 
          「明治維新に火をつけた男」YouTube
▼ 講演会の総合司会は、庄内町大河ドラマ誘致協議会事務局長・庄内町社会教育課長佐藤直樹が務めました。


▼ 最初に講演会実行委員会委員長、公益財団法人清河八郎記念館理事長田沢伸一の挨拶です。


■ 挨拶概要
 清河八郎は1830年に生まれ、1863年に暗殺されている。僅か34歳の人生だった。特に活動家として目覚めたのが1860年の桜田門外の変だと言われ、それから3年の活動で、明治維新に向けた大きな運動の立役者として今でも色んな説が出ています。
 また清河八郎記念館には、八郎が書いた手紙や日記。更には幕末の志士との連絡時に出した手紙とか、まだ半分以上が解読されていない。今、大学の先生お二人や地元の研究者の方にお願いして解読に努めている。
 博物館法の改正があり、博物館は単に展示、公開するだけでなく、地元の観光振興にも寄与することが義務付けられた。その意味で、そうした資料を通してできれば大河ドラマ誘致の環境醸成にも繋げていきたい。
 講演依頼をした際に、一発でOKしてくださった佐高先生に感謝し、今日は佐高節をお聞きしながら清河八郎の話に期待したい。

▼ 次に講師紹介を清川地区振興協議会事務局長小倉慶久が行いました。


■ 紹介概要
 先生は1945年酒田市に生まれ、酒田東高等学校、慶応義塾大学法学部法律学科を卒業され、卒業後、庄内農業高校の社会科の先生、その他庄内地区の高校で教鞭をとっております。東京に出て経済紙の編集長になり、1982年に評論家として独立しておられます。現在は評論活動と併せて、東北公益文科大学の客員教授を努められ活躍されております。
 併せて今回の参加申し込みの時は、庄内農業高校の卒業生の方が、恩師の講演だから是非参加したいと言う声が多く寄せられていたことを報告しておきます。
▼佐高信氏講演
演題「清河八郎の真実に迫る!明治維新と清河八郎」



 講演内容の概略の概略を記していきますが、最初に聴講された皆さんへ当日資料として配布した、佐高先生直筆によるレジュメをご覧ください。


 講演の構成内容を示したもので、次のⅠからⅤまでに大別されていました。
Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
Ⅲ 「明治維新とは」?・王政復古
Ⅳ 「不耕貧食の徒(ふこうどんじきのと)」(安藤昌益)
  年貢半減令と相楽総三
Ⅴ 清河八郎の可能性
  大川周明、石原莞爾と比較して
アンケートでも「レジュメを示して頂きありがとうございました。」と述べられた方もおりました。
 それでは、講演内容についてお知らせします。(講演時間約70分)
■ 前段
 講演の依頼があった時に、清河八郎のことを凄く良く知っっているから引き受けたのではない。むしろ皆さんの中によく知っている人が居ると思う。只、清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言うことは、話せるるかもしれないと思い引き受けた。
 今日は庄内農高の教え子も来ているということだが、率直に言って故郷で喋ると言うのは容易でないものがる。(会場:パラパラと拍手)‥‥今の拍手はどういう意味かよく分からないですが、(会場:あちこちで笑い)‥‥藤沢周平さんが故郷は辛い土地でもあると言っている。それは、若さに紛れて人を傷つけた記憶が蘇るからだと。
故郷は辛い土地、自分も80歳を目前にしてちょっとそんな感じを強くしている。


Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
 
清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言う時に、私は西郷隆盛と比較したらある種浮かび上がると考えた。
 西郷隆盛と清河八郎は同時代を生きた人で、清河八郎は西郷隆盛の3歳年下であった。
 でも、西郷隆盛を知らない人はいないが、清河八郎を知らない人はいると思う。それは何故か。
 西郷隆盛は藩士、下級藩士ではあるが藩士だった。清河八郎は酒井藩に仕えた訳ではない。郷士と言う武士と百姓の間、坂本龍馬もそうだったが、清河八郎は「郷士には身分と言う天井が無い。」と幼い時に言っている。いろんな動きが藩士より比較的楽で自由だった。その反面、組織をどういう風に動かすかと言うことに余り長けてはいなかった。故に、西郷隆盛とは組織の動かし方が違っていた。
 それから、何と言っても西郷隆盛は明治維新を起こした薩長、薩摩の出身で、清河八郎は、賊軍とされた庄内藩の出身だったと言うのが、名前の差と言うものに影響しているのではないかと考えている。
 勝てば官軍と言いますが、庄内では逆に官軍とは言わないで官賊と言う。あっちの方が賊軍ではないかと思っている感がある。
 また西郷隆盛は、いわゆる薩長史観に基づいて語られてきた。明治維新を起こした側、歴史の勝者であり、また西南戦争で敗れたことによって歴史の敗者でもあった。この二つの側面が、大きな人気の側面でもあった。
 清河八郎は、歴史的な勝敗と言うものにちょっと関係がない。その前にして殺されてしまったと言うことになる。
 歴史が正しいか、正史と言うものは大体勝者が書く。薩摩、長州と言うものが明治維新を成し遂げたと言うことになっているので、賊軍と言う側の歴史は消されていくのです。
 歴史の正史の中に清河八郎を押し立てていく場合には、勝者が書く歴史が正しいのではないと言う異議申立ての中に、それぞれの歴史観の変換を迫らなければならない困難さがある。


Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
 司馬遼太郎は清河八郎のことを山師とか出世主義者とか書いている。何故そんな表現が出て来るかと言うと、さっきの薩長の立場に立つ歴史観か、奥羽越列藩同盟、つまり賊軍とされた荘内藩の立場に立つかの違いがある。
 司馬遼太郎は、薩長史観にたっており、倒幕を起こすと言いながら、天皇の名を利用して動き回った男として「奇妙なり八郎」と言う短編を書いた。
 その山師と言う表現に憤激して藤沢さんは「回天の門」と言う長編を書いたと後書きで言っている。藤沢周平さんは自分のことを、”厄介おじ”と言っている。”厄介おじ”とは、長男でない次男、三男の男のことで、家督を継げないと言うことで厄介者とされていいた。 
 清河八郎は長男だが、歴史と言うものは武士が動かすと言うことに対し、清河八郎はその武士と言うものから自由だった。その自由は保証されない自由だったから、その厄介おじの立場から考えて、藤沢さんは共感して行ったのだろうと思う。
 清河八郎が凄く親しくしていた人物に山岡鐵太郎(山岡鉄舟)がいる。彼が清河八郎についてこう書いている「彼は、百年に一人の英雄だと、ただ惜しいことに背景を持たぬ。我々には大公儀と言う背景がある。薩摩、長州の志士たちも藩の背景がある。そこへ行くと、あの男はたった一人だ。一人で天下の大事を成さんとすれば、あちらを騙し、こちらを騙し、とにかく芸が細かくなる。今少しあの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう。」
 その背景を持たないと言うことがどういう事なのか、背景に拘った司馬遼太郎には見えなかったし、清河八郎のある種のアジテーターとしての魅力とか、あるいは、文だけでなく武にも優れていた。また妻「お蓮」と言うある種の悲運の女性を愛すると言う細やかなところが、背景と言うものを抜きにして人物評価を行ってきた藤沢周平さんには見えていたんだろうと私は思う。


 これから清河八郎の明治維新への役割、行動の原点に触れる講演に続きますが、それは次回の報告とさせて頂きます。暫しお待ち願います。
Ⅲ 明治維新とは(王政復古)
Ⅳ 「不耕貪食の徒(ふこうどんじきのと)」安藤昌益
Ⅴ 清河八郎の可能性・大川周明、石原莞爾と比較して 

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