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06.08.09:35

令和7年清河神社例大祭

emoji 肌寒い天気になった5月30日(金)、明治維新に火をつけた男、清河八郎を祀る「清河神社」例大祭が、町内外から54名の参列者により斎行されました。


 清河八郎が江戸麻布一ノ橋付近で幕府の刺客により暗殺されたのが文久3(1863)年4月13日(新暦5月30日)であり、この祥月命日を例大祭とし、毎年八郎を崇敬する多くの方から参列頂き遺徳を偲んでおリます。

▼ 式次第
▼ 開式を告げる打鼓の軽快な音が拝殿に響きます。


▼打鼓に続き修祓の儀です。大幣を用い最初に神饌、次に宮司、参員、最後に参列者を清めます。




▼修祓に続いて祀神に敬意を表す宮司一拝が行われます。参列者も一緒に拝礼します。


▼次にいよいよ本殿の扉を開ける開扉の儀です。この時は
警蹕と呼ばれる、「お~~」、「お~~」と参員の低い声が拝殿に響きます。


▼宮司祝詞を奏す。正木尚文宮司が、新しく遷座された神霊に向かい、心安らかにして参列者と地域の安寧、繁栄を見守って頂くことを念じていました。


▼清河八郎記念館出入口付近に、日本九重流詩吟学会三代宗家茂木宋洲氏作による「祭神 清河八郎に捧ぐ」の漢詩が掲示されています。




 この漢詩は、平成10(1998)年頃、当時、日本九重流詩吟学会庄内支部支部長であった佐藤充洲(佐藤強)氏が、郷土の英傑である清河八郎の和歌に自ら曲をつけ吟じていたものを、庄内支部門下生の皆さんが指導を受け、色々な場所で発表していた折、三代宗家茂木宋洲氏が和歌の作者である清河八郎に興味を示し、直接清河八郎記念館に来訪されました。
 当時の故齋藤清館長から八郎が明治維新の魁となった人物であることを知らされ、その偉業を清川の自然と共に詩で表現したものです。

 例大祭では奉吟として、日本九重流詩吟学会庄内支部の皆さんの協力で毎年吟じて頂いております。
 今年は、同学会庄内支部長総伝八段範
相馬角洲(相馬武)氏、総伝八段範師土門登洲(土門敦)氏、それに総伝八段範師高野穹洲(高野学)氏の三名から、和歌「いざさらば」、「さくら花」、「魁て」、「砕けても」、それに「祭神清河八郎に捧ぐ」を吟じて頂きました。

清河八郎辞世の和歌となった「魁て」は​​YouTube​でご覧ください。

日本九重流詩吟学会庄内支部支部長総伝八段範相馬角洲(相馬武)氏


▼同総伝八段範師土門登洲(土門敦)氏


▼同総伝八段範師高野穹洲(高野学)氏


▼放吟に続いて玉串拝礼です。(敬称を省略して記載)
 奉納して頂いた皆さんは21名で、最初に清河神社責任役員代表渡邊和能、次いで山形県議会議長・公益財団法人清河八郎記念館理事長田沢伸一、庄内町長富樫透代理副町渡満、衆議院議員加藤鮎子代理秘書金丸秀明、参議院議員船山康江代理秘書渋谷廣之、参議院議員芳賀道也代理秘書阿部秀徳、庄内町観光協会会長・清河八郎大河ドラマ誘致協議会会長大滝正博代理商工観光課長高田謙、清河八郎グラフィティ著者・清河八郎親族加藤淳、最上峡芭蕉ライン観光株式会社代表取締役社長・公益財団法人清河八郎記念館顧問鈴木富士雄、株式会社荘内日報社代表取締役社長橋本政之、株
式会社清川屋取締役会長伊藤秀樹、公益財団法人荘内南洲会理事長小野寺良信、大川周明顕彰会、十和建設株式会社代表取締役今野勉代理庄内支店長後藤竹也、清河八郎研究会会長小野寺雅昭、庄内町立立川中学校校長田沢明広、庄内町立立川小学校校長丸川利英、庄内町立川総合支所長阿部聡、株式会社今井建築代表取締役今井政弘、清河八郎先生の妻・お蓮生家 菅原善一、最後は、淸川地区自治会長会代表丸山富幸が捧げました。




▼閉扉の儀:本殿の扉が静かに閉じられそれと同時に「お~~」、「お~~」と警蹕の声が拝殿に響きます。


▼神事としての最後に宮司一拝が行われ、参列者も全員拝礼します。


▼ 太鼓が打ち鳴らされ神事終了を告げます。


▼ 神事の終了後に正木尚文宮司から次の概要で挨拶がありました。
「自分たちが小さい頃はこの境内でよく遊んだ。『八郎様さいてくるの~』これが決まり文句だった。神社が出来たのが昭和8年で92年が経過し、雨漏りの心配が出てきた。平成26年には一部補修もしたがさらに範囲が広がったようだ。本格的に補修となると一千四百万を超える金額になることが分かったが、創建当時の清川とは大違いで、今の清川の現状では到底実現しきれない金額になる。また八郎さんの生家齋藤治兵衛家の力も偉大だったと思う。
 神社役員会で何回も話し合った結果、自力でささやかな本殿を造ることで意見の一致をみた。地元の株式会社今井建築さんの力で立派な社を作ってもらい、さる5月11日に遷座祭を行い感謝状を差し上げた。皆様にはこれからも清河神社へのご協力をお願いする。」



以上で神事の全日程を終了しました。この後は同じ場所で直会になりますが、その様子は後日お知らせします。

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05.21.13:06

清河神社遷座祭


emoji令和7年5月11日(日・大安)、清河神社遷座祭を斎行しました。
 清河神社が創建されたのは昭和8年、今から92年前になります。屋根は銅板葺きになっていますが、雪国清川の冬は厳しく、毎年繰り返される落雪により銅板が摩耗し、平成26年には冬季間の凍結融解による浸透水から、屋根構造材の損傷による修理を余儀なくされ、さらに近年は、内陣への雨漏り被害が懸念される様にになっていました。
 新しい銅板で葺き替えると高額な経費が必要になることが判明し、神社役員会で度重なる協議の結果、将来の維持管理も考え神社の自己資金の範囲内で、直接雨風、雪からの影響を受けない覆殿方式を用いたささやかな本殿を新築するのが最良の結果であるとの結論に達しました。
 工事は、株式会社今井建築が請負、令和6年9月1日に着手、同年11月19日に完成しています。

▼拝殿と旧本殿への渡り廊下に新設なった新本殿


▼姿図


emoji位置的には拝殿から旧本殿へ通じる渡り廊下内に新設したもので、廊下を覆殿として活用し、風雨や降雪被害を直接受けないよう配慮しています。
 木材は、無垢の杉材で無節を基本にし、階段は欅材となっています。大きさは、高さ、幅、それに奥行き何れも1.8mで、ご神体を祀る神棚部分は高さ76㎝、幅1.8mになっています。

emoji遷座祭とは、本殿を新たに造営した際に、これまで祀られていた旧本殿から新しい本殿へご神体を移座する儀式で、清河八郎公のご神体を92年振りに新しい本殿へお祀りしました。参列者は清河神社役員で斎行されました。

▼遷座祭次第



▼当日捧げた神饌


▼打鼓:儀式の始まりを知らせる太鼓の軽快な音が拝殿に響きます。


▼修祓




▼降神の儀:警蹕、開扉
 降神の儀
 警蹕:「お~~!、お~~!」と斎主が声を発し御霊をお招きします。
 開扉:徐に本殿の扉を開きます。


▼宮司祝詞を奏す


▼玉串奉奠
 最初に正木尚文宮司、次いで渡邊和能清河神社責任役員代表、それに工事の受注者である、今井政弘株式会社今井建築代表取締役が捧げました。






▼昇神の儀:警蹕、閉扉
 警蹕:「お~~!、お~~!」と斎主が声を発し御霊を元の御座にお帰り  
    頂きます。
 閉扉:徐に本殿の扉を閉じます。


▼打鼓
儀式の終了を告げる太鼓の音が拝殿に響きます。


▼感謝状贈呈
 工事受注者である今
井政弘株式会社今井建築代表取締役に正木尚文宮司から感謝状の贈呈を行いました。







▼宮司挨拶
挨拶概要
「いま、八郎様さいてくる~。」そんな言葉を家族に残し、ここでよく遊んだものです。「八郎様」とは清河神社に親しみを込めて呼んでいたもので、今なお「八郎様」と呼んでいる人が多いと思われます。
 さて、昨年地区の皆さんには回覧でお知らせしましたが、本殿屋根下地の腐敗が進み、早急に補修する必要があったのですが、屋根全体を復元するとなると、一千四百万円を超えることが分かった訳です。
 最近の地区の世帯減少、高齢化などの現状を勘案し、自己資金の範囲で新たな本殿を造ることになり、お陰様で竣工にこぎ付けました。「八郎様」には申し訳ないのですが、現状をご理解頂きまして、今後ともご加護の程をお願いし、御礼したいと思います。
 


▼新本殿竣工記念撮影

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11.01.09:26

令和6年度特別企画展ギャラリートーク開催

 令和6年10月24日(木)、公益財団法人清河八郎記念館を会場に、今年の特別企画展[「赤心報国回天倡始」の尊皇攘夷]を提案、企画した池田定志氏(元庄内町教育長、現公益財団法人清河八郎記念館理事)によるギャラリートークが開催されました。約30人の聴講者を前にして、清河八郎は幕末期に庶民の苦しみを救わんと、「経世済民」の理想を掲げ、挙国一致(オールジャパン)による攘夷決行を目指したと解説してくれました。
 

▼開会の挨拶をする廣田幸記公益財団法人清河八郎記念館館長



▼今年の特別企画展の狙いを解説する池田定志氏






※ 以下の文章は、池田氏本人から講義の大筋としていただいた原稿です。
emoji 八郎の尊皇攘夷は「赤心報国回天倡始」
 尊攘急進派として九州遊説をし、志士たちを奮い立たせ、薩摩藩と京都挙兵を試み、明治維新の扉を開いた。

 さらに、幕府の尽忠報国の志士募集に積極的に協力し浪士隊を結成した。後の新選組、新徴組となる。京都で尊皇攘夷運動が最高潮に高まる中で、幕府の攘夷活動の実行促すべく計画した。この機を活かし、朝廷のもと国を挙げて国難を乗り越えようとした企画は、時代がまだ熟していなかった。

 八郎には薩摩藩であろうが幕府だろうが挙国一致の国造りの道筋になればよかった。外国に侮られないオールジャパンの国づくりを目指したと考えられる。

 また、広く身分を超えて有能な人材を登用し、慎重に開国し、富国強兵をめざしたと推測される。心から体制の御一新を願い、命がけで時代を先取りした秀才であった。

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10.22.15:26

髙橋泥舟「山形行日記」解読記念シンポジウム第二部

emoji髙橋泥舟「山形行日記」解読記念シンポジウム第二部の座談会概要です。

▼登壇者:【東洋大学文学部教授岩下哲典氏】、【カナダ出身、フリー翻訳家イアンアーシー氏】、【鶴岡市郷土資料館館長補佐今野章氏】、コーディネーター【前庄内町文化財保護審議会会長・清河八郎生家齋藤家菩提寺「金華山歓喜寺」住職柳川泰善氏】

▼ 座談会ステージ全景


​​​【柳川泰善氏】
 最初にお話ししたいのは、この山形行き日記の解読に関しての切っ掛けであります。
 平成16年に、私が 清河八郎さんのお墓を掃除していた時に、たまたま河北町の議長さんと泥舟研究会の大場勇人さんともう一方三人がお墓に入って来ました。それはどんな理由かと申しますと、平成16年町制施行50周年記念事業として泥舟展をやりたい。ついては泥舟さんの山形行き日記があって、しかもその山形行き日記と、 随行しての記録を書かれた早坂徳之助さんの「庄内紀行高橋泥舟に随従して」というものなど、資料をたくさん持ってこられました。
 私も父から、うちには高橋泥舟の書があると聞いていて、一部その関係の資料があったんで、全く見ていない訳では無かったんですが、何しろ難しくて困っていまして、​それを読めないままず~っと温めておいたのですが、 一昨年、岩下先生が「旅する思想家清河八郎」と言う、そう言った内容のお話でお出でになった時に、実はこのことについて、平成16年に研究会の大場勇人さんが見えて、庄内のことは庄内で少し調査研究し、解読して欲しいと言うことがあったので、そのことをお伝えして岩下先生に解読をお願いしたのが始まりです。​

▼ 柳川泰善氏

 
 今回、本当に岩下先生にお願いして、お三方が完全に解読され、翻刻し、読み下し文に完成したということは、私は、年来の念願が叶ったと言うことを痛切に感じており、 大変有難く思っております。まず最初に御礼申し上げたいと思います。
 最初に清川に来るのが9月26日、この冊子で行きますと159ページ、お持ちの方ちょっと見て頂きたいと思います。 26日の日記の最後の方、ページの下段の方の最後から4行目、「黄昏清川の齋藤治兵衛方へ着す。」これがあります。齋藤治兵衛のうちは、清河八郎の生まれた実家のことであります。
 その時には、清河八郎の母「亀代」も73歳、喜寿を超えてかくしゃくとしておられまして、大歓迎をして久しぶりにお会いしたので懐かしいと回顧する記事も載っておりました。
 それは西遊草で、京都から東海道を下って江戸に来た時に、江戸に20日くらい滞在するんですが、その時に多分泥舟さんと清河八郎さんの母「亀代」さんはお会いしているのではないかと思います。こんなことがあって、非常に歓迎している記事が、随行者であった早坂徳之助の庄内紀行の中に書かれております。
 山形行き日記の中で清川を立つと鶴岡に行っております。高橋泥舟の日記としては鶴岡が一番多く書かれております。私は、明治22年頃の鶴岡はどういう状況にあったか知るところではありませんので、
今日は、郷土資料館の今野さんにその時代の鶴岡の状況と、それから高橋泥舟と鶴岡の人方との交流について、まずお話し頂ければ有難い。こんな風に思います。今野さんよろしくお願いします。

▼今野章氏


 明治22年段階の庄内の状況というものをざっと説明いたしますと、2月11日に大日本帝国憲法が発布されるっていうことで、これに合わせて西郷隆盛の賊名が解かれることになります。それに対して庄内士族たちは南洲翁遺訓の編纂事業をこの年から始めて、翌年から販売に歩く訳なんですけども、まあそういった関係で南洲翁遺訓の編纂を始めたっていうのが一つ大きいことだと思います。それから4月に市制と町村制が施行されるって事があります。6月6日には、鶴岡、酒田で町会議員選挙が始まったっていうことがありまして、憲法が発布されて、高揚した気持ちの中にいたのが、明治22年段階っていう風なことになると思います。
 実際に泥舟を訪ねてきた人々っていうのが、一番目として僧侶の方が多いですね。
 ​​​​​​​​​​10月6日に忠愛学校の開所式に泥舟が参加することになります。忠愛学校の言うのは何で有名かというと、鶴岡が給食発祥の地の言われておりますが、この忠愛学校が、全国で初めて給食を始めたと言うことで有名になっております。 
 二番目に士族についてですが、9月29日には幕末、庄内藩の江戸家老だった、松平権十郎に「伝言頼み置く」という文言が日記にあります。権十郎とはもしかしたら泥舟と面識があったのかも知れません。
 10月12日には、江戸の留守居役を務めていた黒川と言う人物が訪ねて来ます。黒川は、清河八郎が庄内藩邸に建白書を持って来たときの実際取り扱った人物なんですけども、もしかしたら清河と面識があったのかなと思うんですけども、それと関連して泥舟を訪ねてきたのかな っていうのがこの文章から読み取れます。

​ あと、西田川郡役所の郡長が訪ねてきたり、役人が訪ねてきたりしております。
 ​​日記で鶴岡で面白かったのは、いろいろな料亭の名前が出てたことが大変面白く拝見しました。明治26年段階だと鶴岡町では、飲食店が81軒、これ明治の当館に残っている税金関係の資料から見て取れるんですけども、81軒飲食店があってそのうち34軒が料亭になっております。泥舟が泊まっていたのが「鶴寿亭」というところで、現在の大宝館の前あたりにあった旅館兼料理店だと思うんですけども、そういった料亭が賑やかだった所の中に泥舟が泊まっていた、そう言った面があるのが、ざっとこの日記を見た鶴岡滞在中のことになります。まずは以上。

【柳川泰善氏】
 ありがとうございました。まず概要をお話ししていただきました。
 続いて、アーシーさんから、皆さん、この難解な泥舟さんの書かれた日記をカナダ出身のアーシーさんが解読されたっていうことに対して、崇敬の念だけでなくて、何とも考えがつかないような才能をお持ちなのかなと、こんなふうに思っておりますが、皆さんいかがですか、(会場から拍手多数)ありがとうございます。この難解な解読をされたお話をいただきましたが、裏話を少しお話ししていただければありがたい 。
▼イアンアーシー氏


 私は才能など全くなくて、あの~単なる物好きです。それでこういう昔の資料に、昔からこういうものに興味があるんですけれども、大学で古代ギリシャ語や、ラテン語を勉強するぐらいだからとにかく古いもの、歴史的なもの、そういうようなものに血が騒ぐという性格です。
 解読し始めたのはちょうどコロナ禍の中だったので、3人でオンライン会議を開いてそれで少しずつ解読していきました。
 今日はいらっしゃらないんですけれども、もう一人の参加者、服部さんというお方ですが、もう80歳を超えてるにもかかわらず、もの凄く良く読めるし頭の切れるお方ですけれども、実はこの入力作業を担当してくださったのはその服部さんという方だったんです。
 ​​​どういうような過程でやったかというと、まず3人でオンラインで解読をして、その服部さんはそれを全部入力してくれるという形になっていて、それで コロナ禍が少し収まってから、それから服部さんと私の2人が実際にあって、その解読文を確認するという形でした。
 どこであっていたかと言うと、大体が喫茶店でこういう古い文書を確認していたんですが、私はこう言う顔ですので、二人で会っていると、周りの人はこれから英会話のレッスンでも始まるのではと思っていたら、突然、「なんとか候、かんとか候」が始まって驚いたのではないでしょうか。
​【岩下哲典氏】
​​​​ ちょっと補足しますが、服部さんは、名古屋大学を出ておられてその後銀行にお勤めだったんですね。銀行にお勤め だったので数字に非常に強くて今回のこれ泥舟さんの業務日誌みたいなもんなんで、どのくらいのまああのお金というか、その何をまあ誰からいくらもらったとか、そういうのがですね、やっぱり数字に強い服部さんはよく分かったみたいで、非常にありがたかったです。

​【柳川泰善氏】​
   岩下先生、この幕末三舟というのが明治時代になってから、それぞれ泥舟、鉄舟、海舟と言う号が有名になったというお話がありましたが、この三人の書ですね、書、それから、高橋泥舟さんの様な、あ~言う難解な筆さばきと言うのはどのような表現なのかとか、その辺先生お分かりでしたらちょっとお話ししていただければありがたい。

▼岩下哲典氏


 大体あの三幅対であるケースが多いんですよね。真ん中が海舟で、こちら側に鉄舟で、こっちが泥舟と有名なご三幅、ご本尊が海舟で、脇侍で鉄舟、泥舟っていうのが普通なんですけど、皆さん見ていただいてまあ好き不好きあると思いますけど、私は、なんて言うんですか雄渾な字を書くのは泥舟さんだと思います。
 昨日、歓喜寺さんで、鉄舟さんの字を見せていただきましたけれども素晴らしい。その~筆使いも力強くて圧倒されるのがこれ鉄舟さんだと思います。
 泥舟さんの字は、まあ~表現するなら、こんな感じですよね。これ、あの~梅の古木ですよね。梅の古木が伸びていくような、こっち行って、こっち行って、こっちの様な、ある意味すごく難解で実はあの柳川先生には申し訳ないですけど、これは、コンプリート(完成形)なもの、完成したものでは実はなくて、まあ三つぐらいまた見つかりましたよね。こういう風に読んだ方がいいんじゃないかと、やっぱりこう読んだけれども、もしかしたらこうではないか っていうのがですね、やっぱりあるんですね。 なかなかの完成していない部分もあるんですけども、そのくらい難しいという風にご理解いただければいいと思います。

▼泥舟の字体は梅の古木と表現する岩下哲典氏


 ただ泥舟さんのいわゆる草書体の字はもうこんな感じの梅の古木なんですが、楷書を是非ご覧ください。楷書はですね、本当に惚れ惚れするくらい良い字を書きます。清河八郎のお墓の字は泥舟さん(柳川氏:両親も)両親もですね。 その字はもう本当に楷書で綺麗な楷書でですね 是非これはあの小学校のお習字のお手本にしていただきたいくらいのあの字だと思います。
 最後にあの海舟ですけれども海舟さんの字もですね、あの個性的でいいんですが、私はどうも好きになれないんですね。なんて言ったらいいんでしょうかね、その鉄舟さんの雄渾な字と泥舟さんの個性的な字の間に挟まって、実はあんまり個性的でも何でもない字っていうのが、海舟の字じゃないかな っていうふうに思って、ちょっと改修してもらいたい(会場から笑い)なと思う次第でございます。海舟のファンの人に怒られそうですけれども。まあなんとなくそんな気がいたします。以上です。

▼柳川泰善氏


​ ​「老梅枝」と言う言葉がある様ですが、老梅の枝というそういう言葉があります。それに値する、そんな風に思います。アーシーさん血の騒ぐお話をしていただいてありがとうございました。
 実は私が先代住職から聞いてる話では泥舟さんが庄内に来たっていうのは目的が二つあるんだと、一つは先程来お話あったように清河八郎さんのお墓にお参りに来るのが一つの目的だった。
 それからもう一つは、善宝寺にも二泊か三泊くらい泊まっているんですが、当時、曹洞宗の本山であった能登にある總持寺の住職をされた奕堂禅師(えきどうぜんじ)が、秋田の方に用がありその帰りに体調を壊し、善宝寺で亡くなっています。泥舟さんと
奕堂禅師との関係は、河北町谷地の長谷寺の仁藤巨寛(にとうきょかん)さんが奕堂禅師の弟子にあたると、そう言うご縁があったということなんです。
​ この山形行き日記の163ページの後ろから3行目です。同十日晴れ夕刻雨、終日揮毫と、こう言う風になってるんですが、グラビアを作る段階で岩下先生と何回かやり取りして、と申しますのは、この庄内紀行髙橋泥舟に随従してしてということで、早坂徳之助さんの随行の文章があります。そこに「泥舟は善宝寺の山に登り仁藤禅師の師で、堂禅師の墳墓に拝す。」という言葉があります。このグラビアの 8ページの一番最後の方に善宝寺の建物の左の写真(奕堂禅師荼毘地)を載せていただきました。
 そろそろ時間なんでしょうが、最後に今野さん、10
​月24日に常念寺の住職さんが髙橋泥舟さんとの面会の時のお話をできればと思っておりましたが。

▼今野章氏


 さっき鶴岡の話をしましたので、今度は酒田の話をしたいと思います。
 10月20日に中川一(なかがわはじめ)と言う人が訪ねてきます。それこそ先程アーシーさんが言った葡萄酒を持って訪ねて来る人なんですけれど、この人は新徴組の隊士で、浪士組として江戸から京都に行った人でありまして、越前の浪士だったんですけども、その当時から泥舟と面識があった人になります。  
 新徴組は、大体、明治7年時点でほとんどが鶴岡から郷里の方に戻って、明治8年時点では39人しかいなかったんですけども、中川一はその中の一人でありまして、遊佐の方の戸長として、高瀬村の戸長をしていた人で、この人も懐かしさに泥舟が来ていると言うことで会いに来ています。
 先ほど、西郷の話をちょっとしましたけれども、この年、この日記の中で髙橋直勝と言う人が10月9日に清河の贈位のために上京します。 さっき西郷の賊名が解かれたって言うことに関連すると思うんですけども、やっぱり清河に対しても贈位を与えて欲しいと言う、そう言った意味もあって髙橋直勝と言う人が上京するんですけども、 この人も泥舟を訪ねてきます。
 10月29日、酒田に居る時には、清河八郎について世に伝わることはいろいろあるけれども、やっぱり評価されるべきだということで、清河に対する一番古い評伝を書いてるのがこの 高橋直勝で、明治22年になっております。
​​​ いろんな人が酒田にいても鶴岡からら訪ねてきたりしていたと言うのが、鶴岡滞在、酒田滞在っていう風になって、結局は 29日に帰ろうとしたところ名残り惜しくて もう一泊、そういうような感じで、大変泥舟と庄内の人は交流が厚かったって言うのが、この日記から見て取れるんじゃないかなと思ったところです。

【柳川泰善氏】

 まだまだ尽きないんですけども、限られた時間で今日お帰りになると言うことであります。岩下先生何か。

​▼岩下哲典氏


 そうですね、折角ですから大河ドラマのことについて、今日、大河ドラマの方も来ていらっしゃいますのでさせて頂きたいと思いますが、
 今、あの~大河ドラマや朝の連ドラなんですけど、私の印象では、女性が主人公というようなことになっていますので、できればですね、今からだとちょっと難しいのかもしれませんけれども、お蓮さんを中心にしてみたらどうかなという風に思いました。これは悲劇の女性でありますけども、やっぱり一途な恋というか愛をですね、貫いてるという風に思います。
 ある意味封建社会の犠牲者でもあると思います。 昨日あの清河八郎記念館の手紙を拝見しましたけれども、非常にこの学識レベルの高い人だと思います。
 歓喜寺さんのお墓を見ても、あの正妻同様に弔って欲しいんだという気持ちが非常によく表れています。
 これは対等な、近世の男女関係では珍しい 対等な関係でありまして、まあ蓮という名前は連なるっていうのはですね、対等な人間同士の集まりみたいな意味もありますので、 やっぱり現代のその平等な世の中に一石投じる ドラマになりうるという風に私は思います。
 ですので、この髙橋泥舟の、山形行き日記のですね、泥舟が歓喜寺さんのお墓にお参りする時に泥舟さんとしては、お蓮さんのお墓にも、お参りしたと言う風に、まあ~泥舟は書いていませんけれども、その場面がドラマの最後に来るといいのかなという風に思います。


【柳川泰善氏】
  え~と、大河ドラマの会長さんいかがでしょうか(会場から「同感」の声有り)まだ話は尽きないんですけども、時間が迫っておりますのでこの辺で閉じさせていただきたいと思います。 
 先ほど 高橋直勝さんという方のお話がありましたが、清河八郎さんは明治41年に正四位をいただくわけですが、その運動を山形県知事を始め、庄内挙げて市町村の首長さんたちが署名運動をしている最中に、この高橋直勝さんは県会議員をやっておりまして、先ほど今野さんからありましたが、明治22年に一番早く清河八郎伝を書かれた方なんです。
 この方が、髙橋泥舟が山形の方に行っても毎日位高橋泥舟さんに会っているんですが、中身は分かりませんが運動展開中に、助言を頂いていたのではないかと言うことが想像されます。
 まだまだ、この山形日記から浮かんでくるものが多々ありますが、原文が翻刻されて読み下し文になったのは、先ほどの講演の中にもありました通り、 山形県では初めてであります。全国でも初めてだと言うことで、誇りの有る庄内紀行、特に清河八郎さんを検証する意味で、非常に大切な資料だと私は思っております。
 どうぞこれから皆さんこの山形行き日記を開いて、これからやっと研究が始まったと、あるいはそういう資料であるということを思っていただいて、皆様方からも色々勉強していただければありがたいと、こんなふうに思っております。 
 大変拙い司会で進めてまいりまして、事前に打ち合わせは若干いたしましたが、その通りには行かないところもあったかと思います。時間に限りありますのでこの辺で終わりにさせていただきました。お三方、ありがとうございました。(会場から盛大に拍手)以上で座談会を終わります。ありがとうございました。
​​​

 以上でシンポジウム一部と二部の全日程の終了となりました。
 この後、質問の時間を設けたところ、鶴岡市立大山小学校同窓会長さんから次のような御礼の言葉がありました。「大山小学校の古い校舎に横幅約5尺くらいの扁額があります。何故ここに泥舟さんの額があるかと言うことなんですが、隣の西郷小学校には先ほどお話ありましたように、西郷小学校という書がありまして、それを木に彫ってあります。それで確か私も泥舟さんが、清河八郎先生の墓参りに来て、そしてこちらの方に寄ったとお聞きしておりますけど、今日、先生方のお話を聞きまして本当に確信しました。ありがとうございました。以上です。
こんな感想を述べて頂きました。
 髙橋泥舟は清河八郎が浪士組を結成した時の取締役となり、八郎の生き方に共感した人物であることがシンポジウムを通し再確認することが出来ました。
 現在の清川にも髙橋泥舟来訪の地であることを記し、髙橋泥舟山形紀行の足跡として、歴史の一ページを蘇らせることが必要ではないだろうか。と独り秘かに思ったシンポジウムでありました。


 ​この庄内町史資料第七号は、二部構成になっており、第一部で明治大学名誉教授徳田武氏が、清河八郎が嘉永3(1850)年7月3日から9月7日迄の間、京都から長崎までの紀行文を解読したものを掲載しています。
 
徳田氏は、文中で、清河八郎が長崎行の心構えとして「各土地の経世風土と人情世態とを明らかにし、読書に拠る見識を以って、これを考慮し、その成果を経世済民に資する。」と言う目的意識を以って旅行すると書いており、長崎と言う土地が備える国際性、高名な文人たちとの情報収集、軍事的な観察など多くのことを目的として挙げています。
 原文は漢文で、管原昭治氏(庄内町清河八郎関係調査員)が翻刻し、
徳田先生が読み下し文と現代語訳文を掲載しています。
 第二部で、清河八郎と盟友であった、幕末三舟の一人、髙橋泥舟が明治22年に山形県を訪れた際の旅日記を、東洋大学文学部教授岩下哲典氏と、カナダ出身フリー翻訳家イアン・アーシー氏、それに元銀行員服部英昭氏の三人で翻刻し、併せて読み下し文も作成して掲載されています。
 A4判、全198頁になっています。
    販売定価は​​:1,400円(消費税込み)
       +送料+振込手数料(但し振り込みの場合に限る)
​​

 ​購入希望の方は、次の場所で直接お買い求めできます。また郵送希望の方は、郵便番号、住所、氏名、電話番号をお知らせ願います。メールの場合はファイル添付はご遠慮頂き、直接本文に必要事項を書き込んでください。
①庄内町教育委員会社会教育課

         電話0234-43-0194
           FAX​0234-42-0811
           e-mail​:​syakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
​② 公益財団法人清河八郎記念館
​         
電話0234-57-2104
            FAX0234​-57-2104
           e-mail​:​​spcp4yb9@pearl.ocn.ne.jp清川歴史公園 荘内藩清川関所
         電話0234-25-5885
            FAX0234​-25-5885
④庄内町立図書館
​​​​​           電話:0234-43-3039 
         FAX:0234-43-4762 
         e-mail:​tosho@town.shonai.yamagata.jp
※ 清河八郎の九州紀行文「西遊記事」、それに幕末三舟の一人高橋泥舟の「山形行旅日記」共、日本で最初に翻刻し、分かり易い読み下し文を掲載した貴重な資料集です。

 

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10.11.16:23

令和6年度特別企画展「赤心報国回天倡始」ギャラリートーク!



現在開催中の令和6年特別企画展
「赤心報国回天倡始」の尊皇攘夷
八郎書簡・建白書を通して

ギャラリートークの案内です

期日:令和6年10月24日
時間:13時30分開会
会場:公益財団法人清河八郎記念館
会費:300円(入場料、資料代)
定員:30人になりましたら締め切ります。
   清河八郎顕彰会会員の方は会員証を持参ください。無料になります。
講師:池田定志氏(元庄内町教育長、現公益財団法人清河八郎記念館理事)
※ 清河八郎は何をなさんとして、行動を起こしたのか皆さんの疑問にお答えします。
※ 申し込みは公益財団法人清河八郎記念館までお願いします。☎0234-57-2104


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