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10.04.21:52

「髙橋泥舟 山形行日記」解読記念シンポジウム開催

 令和6年9月16日(月・敬老の日)、庄内町文化創造館「響ホール」を会場に、『「庄内町史資料第七号 清河八郎関係日記一」発刊記念事業シンポジウム、幕末三舟の一人、髙橋泥舟と庄内・清川』を開催しました。
 ​この資料第七号は、二部構成になっており、第一部で明治大学名誉教授徳田武氏が、清河八郎が嘉永3(1850)年7月3日から9月7日迄の間、京都から長崎までの紀行文を解読したものを掲載しています。
 
徳田氏は、文中で、清河八郎が長崎行の心構えとして「各土地の経世風土と人情世態とを明らかにし、読書に拠る見識を以って、これを考慮し、その成果を経世済民に資する。」と言う目的意識を以って旅行すると書いており、長崎と言う土地が備える国際性、高名な文人たちとの情報収集、軍事的な観察など多くのことを目的として挙げています。
 原文は漢文で、管原昭治氏(庄内町清河八郎関係調査員)が翻刻し、徳田先生が読み下し文と現代語訳文を掲載しております。
 第二部で、清河八郎と盟友であった、幕末三舟の一人、髙橋泥舟が明治22年に山形県を訪れた際の旅日記を、東洋大学文学部教授岩下哲典氏と、カナダ出身フリー翻訳家イアン・アーシー氏、それに元銀行員服部英昭氏の三人で翻刻し、併せて読み下し文も作成して掲載されています。
 A4判、全198頁になっています。
    販売定価は​​:1,400円(消費税込み)
       +送料+振込手数料(但し振り込みの場合に限る)
​​

 ​購入希望の方は、次の場所で直接お買い求めできます。また郵送希望の方は、郵便番号、住所、氏名、電話番号をお知らせ願います。メールの場合はファイル添付はご遠慮頂き、直接本文に必要事項を書き込んでください。
①庄内町教育委員会社会教育課

         電話0234-43-0194
           FAX​0234-42-0811
           e-mail​:syakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
​② 公益財団法人清河八郎記念館
​         
電話0234-57-2104
            FAX0234​-57-2104
           e-mail​:​spcp4yb9@pearl.ocn.ne.jp清川歴史公園 荘内藩清川関所
         電話0234-25-5885
            FAX0234​-25-5885
④庄内町立図書館
​​​​​           電話:0234-43-3039 
         FAX:0234-43-4762 
         e-mail:tosho@town.shonai.yamagata.jp
※ 清河八郎の九州紀行文「西遊記事」、それに幕末三舟の一人高橋泥舟の「山形行旅日記」共に、日本で最初に翻刻し、分かり易い読み下し文を掲載した貴重な資料集です。


Ⅰ 開会式


▼ 主催者庄内町長富樫透挨拶概要



■ 本日の シンポジウムは、東洋大学様から東洋大学講師派遣事業ということでご協力をいただいております。岩下先生からは一昨年に続いてということになりますが、今回庄内町町史資料第七号が発刊になりました。後ほどホワイエでも販売しているようですが格安 1,400円でございますので、是非ご購入いただければという風に思っております。
 
​​​​今日は幕末三舟の一人高橋泥舟さんとの関係と言うことで、第一部の基調講演、そして第二部では座談会もありますので、 清河八郎先生が果たした歴史的役割であったり、明治時代との繋がりであったり、そして検証であったりということもきっと出てくるんだろうという風に思っています。
 ​町の方でも平成30年から清河八郎先生を大河ドラマに誘致と言うことで、いろんな活動をやっております。商店街等では幟旗等も出しておりますが、自動販売機のラッピングでありますとか、あるいはそのガチャガチャ という、八郎のカプセルトイみたいなものをやっております。
 いろんな形で多くの皆さんから八郎先生の功績を知っていただくということが、一番重要なことだという風に思っております。
 2030年の生誕200年に向けて、地域の皆さんからより知っていただき、大河ドラマにつながるよう頑張って行きたいという風に思ってますので、是非とも今日のシンポジウムが、その一助、あるいは、これからの皆さんの理解が進む大きな機会になればという風に思っております。

Ⅱ 基調講演概要
演題:【髙橋泥舟はどんな人】東洋大学文学部教授岩下哲典氏


 泥舟は幕末最も有名な幕臣で、槍の教授で遊撃隊の頭であり、徳川慶喜のボデーガードだった。
 髙橋泥舟の泥舟は明治4年以降にこの号を使っているが、どろの舟と言っている。「自分はカチカチ山の泥舟なので自分に乗ったら沈むから寄って来るなよ。」と、こういう気持ちで、泥舟と言う号を使っていたので、あんまり人から好かれないのかなと思ったら実はそうでもない。この日記では、庄内の人や、新庄の方々から本当に歓迎されている。別れる時は別れたくなくて泣く人もいた。泥舟も泣いて、みんな無口になった。そんな歓迎の仕方をされたようだ。
 髙橋泥舟は江戸無血開城のナンバーツーだと思っている。ナンバーワンが山岡鉄舟で、ナンバースリーが勝海舟だ。勝海舟の貢献度が一番と思っている人が世の中に多いが、私は、今まで色々書いてきていや違うんだけどな~と思っている。一番は山岡鉄舟でその山岡を徳川慶喜に推薦したのは泥舟だ。
 明治に入ると廃仏毀釈でひどい目にあわされた仏教を再興しようと、鉄舟と共にあらゆる宗派に手を差し伸べている。中でも禅宗の特に臨済宗の「白隠」と言う人の再評価に奔走している。
 そして泥舟さんは何といっても「旅する揮毫家」だと思う。この山形行日記は、
清河八郎の墓参りがメインだったと思うが、庄内藩にも様々な知り合いがいた様で、多くの人に会いたいと言う思いもあったのだろうと思う。先程も触れたが、別れる時は惜別無上の思いで、別れる時はお互い無口になるようなそんな状況があった様だ。
 鉄舟や泥舟は共に福祉事業に積極的だった。鶴岡の地でも「忠愛学校」の開講式に出て校名を揮毫している。その他東京や新潟でも福祉施設に関わっており、髙橋泥舟は福祉事業にも関わっていたと言うことを知って頂きたい。

演題:【山形行日記を解読して】カナダ出身フリー翻訳家イアンアーシー氏


 まず最初に、​山形いき日記なのか、山形ゆき日記なのか、また山形こう日記と読むのか判然としない。今日はとりあえず山形行き(ゆき)日記と読ませてもらう。
 ​この日記は、今から135年前、明治22年、西暦で言うと1889年の秋に泥舟が山形県を旅した際に作成した記録で、9月16日から11月22日までの記録だ。
 汽車で東京から宮城県の白石まで行って、それから仙台経由で人力車などで、谷地から山形県に入った。そして大石田、これは最上川の川下りをしたと言う風に記録されているが、大石田を通ってそれから清川村、さらに鶴岡、酒田、また清川村に戻って、新庄、楯岡、それれから山形市、赤湯、そして米沢となり、残念ながらその後の予定は記録されていない。

​​​​​​​​​​​ 翻刻とは何かという話をすると、泥舟の字は独自の崩し方で、パッと見て直ぐ読める人はそんなにいないのでは無いかと思う。翻刻とはこの難しい一文字一文字を活字に起こすと言う作業になる。今回は、こうして解読した文にさらに読み易くするために読み下し文を​作成した。
 ​日記の中には、山形行きの旅の目的を記してはいない。記してはいないが一つには清河八郎の追悼の旅だったと思われる。
​​ ​髙橋泥舟が清河八郎のお墓参りをした時に和歌を読んでいる。「清河正明の墓に詣でて」として、「西へ行く 雲と消えても天の下に たてしいさおぞ 世に残りける」 この西へ行くとは、おそらく西方浄土へ行く、と言う意味ではないかと思う。また髙橋泥舟は原本では「功勲」と漢字で書いているが、これは和歌なのでおそらく大和言葉で「いさお」と読むのではないかと思う。そこでこの和歌の意味だが、清河八郎自身は雲のように散ってあの世に逝っても、その功績はいまだに天下に残っている。という意味ではないだろうか。
 また 髙橋泥舟は、清河八郎の故郷清川村に泊まっていた時にこのような俳句を読んでいる。清河八郎の実家の書斎「楽水楼」で読んでいるが、「うかりうかり もの見て淋し 秋の川」これは秋の最上川を見ながら ぼんやりと物思いに耽ってる姿だと思う。
 泥舟は幕末から明治の著名人なので、この旅では多くの人と会っている。そして何時、誰から何をもらったと子細に書き留めているし、そうした実務的な一面と、突然に和歌や俳句、漢詩を書いている。清河八郎もそうだが、私は江戸時代や明治時代の歴史的人物について調べて、いつも感心するのはこの教養の高さだ。
 今の日本では少なくとも国政のレベルで、実利的でないもの、直ぐにお金になるのに繋がらないものは軽視される傾向があるのではないか。お金の計算抜きで、文化そのものを大事にする昔の日本人の姿に見習うというか、思い出した方がいいように思う。
 以上が第一部基調講演の概要になります。この後第二部座談会になりますがその状況は後日お知らせいたします。

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08.31.08:31

シンポジウム「髙橋泥舟と庄内・清川」を開催します

emoji「庄内町史資料 第七号 清河八郎関係日記 一」発刊記念シンポジウムを開催します。​
■ 期日:令和6年9月16日(月・敬老の日)
■ 会場:庄内町文化創造館「響ホール」
     〒999-7781 山形県東田川郡庄内町余目仲谷地280
     電話0234-45-1433

■ 時間:13時30分~15時15分
■ 入場料:無料(但し事前申し込みが必要です。)
  ※ 申し込み時の確認事項
    ① お名前
    ② お 所(庄内町の方は行政区名・庄内町以外の方は
     県名と市町村名)

    ③ 日中連絡のつく電話番号
■ 申込先:庄内町教育委員会社会教育課
    電話0234-43-0194
    FAX0234-42-0811
    Email:shakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
  ※ mailで申し込みされる方はファイル添付ではなく
    申込時の確認事項を直接打ち込んで頂く様お願いしま
    す。

■ 今回の庄内町史資料は二部構成になっています。​
​​
  第一部『清河八郎筆「西遊紀事」』編 
   著者:徳田武氏(明治大学名誉教授・文学
博士・専門は近
   世漢詩)

 それに、今回のシンポジウムのメインテーマである
  第二部​
​​
『高橋泥舟直筆「山形行日記」』編 
   著者:岩下哲典氏(東洋大学文学部教授
)、イアン・アー
   シー氏(カナダ出身の翻訳家、日本語研究家)、服部
英昭
   氏(元銀行家)になります。

   

​​​​​​​​​​​​
■ シンポジウムでは前半に岩下哲典氏が「髙橋泥舟とはどんな人物か」、イアンアーシ氏が「山形行日記を解読して」と題して基調講演を行います。
 後半に柳川泰善氏(前庄内町文化財保護審議会会長・清河八郎生家菩提寺「金華山歓喜寺」住職)と、今野章氏(鶴岡市郷土資料館館長補佐)が加わり、岩下哲典氏、それにイアンアーシー氏の四人による座談会を壇上で行います。

​​​​​​山形行日記」は髙橋泥舟が明治22年の山形紀行の日記で​​​​、​​​​​清川での八郎の墓参りや、生家齋藤家への訪問が記録されており、他に県内の様々な場所を訪れた際の詳細も記されています。これらの記録から、泥舟が見た明治時代の庄内の情景を知ることができる貴重な機会になると思います。どうぞご聴講いただきますようお願いします。

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08.25.12:58

「赤心報国回天倡始」の尊皇攘夷

emoji 令和6年度清河八郎記念館特別企画展開催中
 今年度は、故郷清川の父母に送った手紙を紐解き、八郎自らが記した生の心情を紹介しながら真の人物像に迫る特別企画展です。
令和6年12月1日(日)まで。















 中でも、八郎が幕府の陰謀により「無礼切りの殺人犯」に仕立てられながらも、尊皇攘夷の決起を促す九州遊説に奔走する際、懐中にしのばせた軍旗、「赤心報国回天倡始(国を想う純真な心で、政の大転換を成し遂げる先鋒にならん)」の意。(長さ2.2m幅36cm)の実物は必見です。ご来館の上本物の迫力を是非肌で感じてください。


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07.28.18:26

佐高信特別公演

  清河八郎顕彰会主催による、山形県酒田市出身、佐高信氏を講師に招いた特別講演会を、7月15日(月・祝)、庄内町余目「庄内町文化創造館・響ホール」で開催しました。演題は「清河八郎の真実に迫る・明治維新と清河八郎」です。
▼ 当日聴講者へ配布した講演会次第です。



 この講演会は、月山を取り巻く5市町村(庄内町、鶴岡市、戸沢村、大蔵村、西川町)が構成メンバーになっている、
月山フォーラムが所管する「月山わくわく活性化事業」の採択を受けて開催したものです。
 事前の申し込み人数は283人、当日会場の受付窓口で記帳頂いた方が45人、合計で328人になっています。それに来賓の皆さん、スタッフの皆さん、合わせて約350人の方に聴講頂きました。
▼ 講演会が始まる前に庄内町が作成した「明治維新に火をつけた男」のDVDが上映されました。



 このDVDは清河八郎について分かり易く解説しております。是非ご覧ください。(上映時間11分47秒)       
                 
          「明治維新に火をつけた男」YouTube
▼ 講演会の総合司会は、庄内町大河ドラマ誘致協議会事務局長・庄内町社会教育課長佐藤直樹が務めました。


▼ 最初に講演会実行委員会委員長、公益財団法人清河八郎記念館理事長田沢伸一の挨拶です。


■ 挨拶概要
 清河八郎は1830年に生まれ、1863年に暗殺されている。僅か34歳の人生だった。特に活動家として目覚めたのが1860年の桜田門外の変だと言われ、それから3年の活動で、明治維新に向けた大きな運動の立役者として今でも色んな説が出ています。
 また清河八郎記念館には、八郎が書いた手紙や日記。更には幕末の志士との連絡時に出した手紙とか、まだ半分以上が解読されていない。今、大学の先生お二人や地元の研究者の方にお願いして解読に努めている。
 博物館法の改正があり、博物館は単に展示、公開するだけでなく、地元の観光振興にも寄与することが義務付けられた。その意味で、そうした資料を通してできれば大河ドラマ誘致の環境醸成にも繋げていきたい。
 講演依頼をした際に、一発でOKしてくださった佐高先生に感謝し、今日は佐高節をお聞きしながら清河八郎の話に期待したい。

▼ 次に講師紹介を清川地区振興協議会事務局長小倉慶久が行いました。


■ 紹介概要
 先生は1945年酒田市に生まれ、酒田東高等学校、慶応義塾大学法学部法律学科を卒業され、卒業後、庄内農業高校の社会科の先生、その他庄内地区の高校で教鞭をとっております。東京に出て経済紙の編集長になり、1982年に評論家として独立しておられます。現在は評論活動と併せて、東北公益文科大学の客員教授を努められ活躍されております。
 併せて今回の参加申し込みの時は、庄内農業高校の卒業生の方が、恩師の講演だから是非参加したいと言う声が多く寄せられていたことを報告しておきます。
▼佐高信氏講演
演題「清河八郎の真実に迫る!明治維新と清河八郎」



 講演内容の概略の概略を記していきますが、最初に聴講された皆さんへ当日資料として配布した、佐高先生直筆によるレジュメをご覧ください。


 講演の構成内容を示したもので、次のⅠからⅤまでに大別されていました。
Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
Ⅲ 「明治維新とは」?・王政復古
Ⅳ 「不耕貧食の徒(ふこうどんじきのと)」(安藤昌益)
  年貢半減令と相楽総三
Ⅴ 清河八郎の可能性
  大川周明、石原莞爾と比較して
アンケートでも「レジュメを示して頂きありがとうございました。」と述べられた方もおりました。
 それでは、講演内容についてお知らせします。(講演時間約70分)
■ 前段
 講演の依頼があった時に、清河八郎のことを凄く良く知っっているから引き受けたのではない。むしろ皆さんの中によく知っている人が居ると思う。只、清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言うことは、話せるるかもしれないと思い引き受けた。
 今日は庄内農高の教え子も来ているということだが、率直に言って故郷で喋ると言うのは容易でないものがる。(会場:パラパラと拍手)‥‥今の拍手はどういう意味かよく分からないですが、(会場:あちこちで笑い)‥‥藤沢周平さんが故郷は辛い土地でもあると言っている。それは、若さに紛れて人を傷つけた記憶が蘇るからだと。
故郷は辛い土地、自分も80歳を目前にしてちょっとそんな感じを強くしている。


Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
 
清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言う時に、私は西郷隆盛と比較したらある種浮かび上がると考えた。
 西郷隆盛と清河八郎は同時代を生きた人で、清河八郎は西郷隆盛の3歳年下であった。
 でも、西郷隆盛を知らない人はいないが、清河八郎を知らない人はいると思う。それは何故か。
 西郷隆盛は藩士、下級藩士ではあるが藩士だった。清河八郎は酒井藩に仕えた訳ではない。郷士と言う武士と百姓の間、坂本龍馬もそうだったが、清河八郎は「郷士には身分と言う天井が無い。」と幼い時に言っている。いろんな動きが藩士より比較的楽で自由だった。その反面、組織をどういう風に動かすかと言うことに余り長けてはいなかった。故に、西郷隆盛とは組織の動かし方が違っていた。
 それから、何と言っても西郷隆盛は明治維新を起こした薩長、薩摩の出身で、清河八郎は、賊軍とされた庄内藩の出身だったと言うのが、名前の差と言うものに影響しているのではないかと考えている。
 勝てば官軍と言いますが、庄内では逆に官軍とは言わないで官賊と言う。あっちの方が賊軍ではないかと思っている感がある。
 また西郷隆盛は、いわゆる薩長史観に基づいて語られてきた。明治維新を起こした側、歴史の勝者であり、また西南戦争で敗れたことによって歴史の敗者でもあった。この二つの側面が、大きな人気の側面でもあった。
 清河八郎は、歴史的な勝敗と言うものにちょっと関係がない。その前にして殺されてしまったと言うことになる。
 歴史が正しいか、正史と言うものは大体勝者が書く。薩摩、長州と言うものが明治維新を成し遂げたと言うことになっているので、賊軍と言う側の歴史は消されていくのです。
 歴史の正史の中に清河八郎を押し立てていく場合には、勝者が書く歴史が正しいのではないと言う異議申立ての中に、それぞれの歴史観の変換を迫らなければならない困難さがある。


Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
 司馬遼太郎は清河八郎のことを山師とか出世主義者とか書いている。何故そんな表現が出て来るかと言うと、さっきの薩長の立場に立つ歴史観か、奥羽越列藩同盟、つまり賊軍とされた荘内藩の立場に立つかの違いがある。
 司馬遼太郎は、薩長史観にたっており、倒幕を起こすと言いながら、天皇の名を利用して動き回った男として「奇妙なり八郎」と言う短編を書いた。
 その山師と言う表現に憤激して藤沢さんは「回天の門」と言う長編を書いたと後書きで言っている。藤沢周平さんは自分のことを、”厄介おじ”と言っている。”厄介おじ”とは、長男でない次男、三男の男のことで、家督を継げないと言うことで厄介者とされていいた。 
 清河八郎は長男だが、歴史と言うものは武士が動かすと言うことに対し、清河八郎はその武士と言うものから自由だった。その自由は保証されない自由だったから、その厄介おじの立場から考えて、藤沢さんは共感して行ったのだろうと思う。
 清河八郎が凄く親しくしていた人物に山岡鐵太郎(山岡鉄舟)がいる。彼が清河八郎についてこう書いている「彼は、百年に一人の英雄だと、ただ惜しいことに背景を持たぬ。我々には大公儀と言う背景がある。薩摩、長州の志士たちも藩の背景がある。そこへ行くと、あの男はたった一人だ。一人で天下の大事を成さんとすれば、あちらを騙し、こちらを騙し、とにかく芸が細かくなる。今少しあの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう。」
 その背景を持たないと言うことがどういう事なのか、背景に拘った司馬遼太郎には見えなかったし、清河八郎のある種のアジテーターとしての魅力とか、あるいは、文だけでなく武にも優れていた。また妻「お蓮」と言うある種の悲運の女性を愛すると言う細やかなところが、背景と言うものを抜きにして人物評価を行ってきた藤沢周平さんには見えていたんだろうと私は思う。


 これから清河八郎の明治維新への役割、行動の原点に触れる講演に続きますが、それは次回の報告とさせて頂きます。暫しお待ち願います。
Ⅲ 明治維新とは(王政復古)
Ⅳ 「不耕貪食の徒(ふこうどんじきのと)」安藤昌益
Ⅴ 清河八郎の可能性・大川周明、石原莞爾と比較して 

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06.22.16:52

「佐高信」氏特別講演会を新聞紙上で紹介してもらいました。

​​​​​▼山形新聞


令和6年6月18日



▼荘内日報


令和6年6月18日



酒田市出身の評論家「佐高信」氏が庄内町にやって来ます。
■​​​​演題は「清河八郎の真実に迫る」
■期日は7月15日(月・祝)
会場は庄内町余目「響ホール」
 住所:庄内町余目字仲谷地280
 電話:0234-45-1433
■時間は​午後2時開会です。
入場料は無料です
※事前申し込みが必要です。
■定員は​先着順で300名です。(定員になり次第締め切ります。お早めに申し込みください。)
​​​申し込みは公益財団法人清河八郎記念館
 ​​〒​999-6606​ 山形県東田川郡庄内町清川字上川原37​​
 0234-57-2104(FAX兼用ですが、休舘日の月曜日及び開館中の午前10時から午後5時以外は、呼び出し電話に切り替わりますので受信できません。)
                ▼記念館mail
 又は清川まちづくりセンター
 〒999-6606 山形県東田川郡庄内町清川字花崎1-2​​​

 ​​0234-57-2211・FAX0234-57-2212
            ▼清川まちづくりセンターmail
​​​​

いずれのメールもファイル添付はしないでください。件名を「佐高信講演会希望」とし、次の確認事項を直接本文に打ち込んでください。
申し込み時に確認する事項
①氏名[漢字表記しませんので呼び方だけ(カタカナでも、ひらがなでも可)お願いします。]
②住所(山形県の方は市町村名を、県外の方は都道府県名と市町村名をお願いします。)
③連絡先(日中通話可能な電話番号をお願いします。)

講師紹介
                ▼佐高信氏

                 掲載許可済み
山形県酒田市出身。

 1945年1月、酒田市に生まれ山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、県内の高校教師を務めたのち上京、経済誌編集長を経て評論活動に入る。

 メディアへの出演も多く、社会を鋭く捉えた評論で知られている。東北公益文科大学客員教授。

 ​動乱の幕末において明治維新に火をつけた男、清河八郎が何を思い、何をなさんとしたのか、その真実に迫ります。​

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