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05.07.05:17

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  • 05/07/05:17

11.09.00:14

新撰組・近藤 勇、八郎暗殺未遂!

 八郎の建言によって集まった浪士組。
 文久3年(1863年)2月23日、浪士組一向が、京都に到着し壬生村へ入り、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集めた。
「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説。突然の話に浪士たちは困惑した。しかし八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され、浪士たちは血判するのだった。翌日、八郎はこの血判による上表文を御所に提出する。
 
 江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、①島津久光を引き渡す。②賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
 これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の建白書を上奏。そして八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出した。
 八郎は、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と言うと、芹沢はもってのほかという顔をして、「これは清河氏のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我等同志13名だけは京に残り申す」とキッパリと断った。八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。
 芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。(のちに壬生浪士組⇒新撰組となる)そして、ほどなく浪士組頭・板倉勝静より、芹沢らに八郎暗殺の内命が伝えられた。。

 ある日、八郎が山岡鉄太郎と2人だけで土佐藩邸へ出かけることを聞きつけた芹沢らは、二手に分かれ、芹沢は新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の6名とともに四条堀川に、近藤は土方・沖田・永倉・井上・原田の5名を同行して仏光寺堀川で八郎の帰りを待ち伏せた。
 夜も更け、人通りも少なくなった頃、八郎と山岡は四条堀川を通りかかった。
 これを見た芹沢は、八郎の背後から抜き打ちにしようと近寄ったが、山岡の懐中に御朱印があることに気づき、御朱印に剣をかざすことは、将軍家に敵対するのと同じ意味を持つと当時の武士は考えていたため、芹沢はついに剣を抜かずに終わった。

 近藤は、文久3(1863)年5月、郷里に宛てた書簡で、八郎暗殺の報告を受けて、本来は京で清河八郎ら6人に誅戮を加える予定であった旨を伝えている。

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栃木市の和菓子店「かのこ庵」の福田と申します。30年以上前に何度も訪れたことがありました。ひょんなことから「貴記念館」をご紹介させてもらいました。よろしかったら変な内容ではないと思っておりますが、かのこ庵のH/P内の庵主のブログをご確認ください。

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