06.17.16:46
~維新の魁その所以~同志を求め全国行脚、その先は~
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歴史作家司馬遼太郎に「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた。」と言わせた行動の特別企画展を開催しています。
文久元(1861)年5月21日、幕府の罠による無礼人切りにより追われる身となった八郎は、虎尾の会の同志、伊牟田尚平や安積五郎、村上俊五郎と共に逃亡者となり全国を転々としますが、それはまた「攘夷討幕」を唱え、決行に繋げる全国行脚でもありました。その行動の全てを自身が書き記した日記文「潜中記事」を読み解き、時系列に表記し展示しております。
約1年4ヶ月に及ぶ逃亡生活で、八郎はどんな勤皇志士たちと会い何を話したのか。国事奔走中に果たした八郎の役割を知る貴重な資料の数々を是非間近にご覧下さい。
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▼「潜中記事」「潜中記略」「潜中始末」(いずれも山形県指定文化財)
▼「潜中記事」潜行遊説中の記録として、詩96編、文20編を収めています。
▼「潜中記略」文久元(1861)年~2年7月‥‥‥神田お玉ヶ池の自宅に同志を集め、倒幕の画策を始めた頃から、翌2年の京都挙兵計画、寺田屋事変での挫折、その後江戸に向かうまでの記録。
明治18年7月、同志石坂周造によって出版されており、これに山岡鉄舟、高橋泥舟の序文が載っています。
▼「潜中始末」同じく潜行中の記録ですが、これのみが和文で書かれています。
八郎は7月13日上州草津温泉(現群馬県草津温泉)に着いています。「潜中始末」には次の様な一節があります。
『‥‥此処にて中元13日にあたりて家中招霊の祭りを設け、香花殊に情を感ぜしむ。嗚呼我、人間の子となりて終に祖宗の家にも近づきかね、先祖の祭りは殊更に、父母にも面会ならぬ身となるぞ悲しけれ。定めて故郷の父母の情もさぞかし感慨に沈みあるべしと痛心限りなし。‥‥』
潜行中に郷里清川近くまで行っていますが、庄内藩の探索が厳しく父母と面会するのを諦めています。その時の心情を記した一節です。
草津温泉の湯畑を囲む石柱に「草津に歩みし百人」として、「尊攘派志士清河八郎 文久元年来草」と刻名されております。草津温泉を訪れた際は探してみて下さい。
次の写真は八郎ファンの方が撮影して記念館に送って頂いたものです。
▼ 草津温泉の湯畑
▼「草津に歩みし百人」の表示
▼「清河八郎」の刻名石柱
▼11月30日(火)までの開催です。
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