10.22.15:26
髙橋泥舟「山形行日記」解読記念シンポジウム第二部
髙橋泥舟「山形行日記」解読記念シンポジウム第二部の座談会概要です。
▼登壇者:【東洋大学文学部教授岩下哲典氏】、【カナダ出身、フリー翻訳家イアンアーシー氏】、【鶴岡市郷土資料館館長補佐今野章氏】、コーディネーター【前庄内町文化財保護審議会会長・清河八郎生家齋藤家菩提寺「金華山歓喜寺」住職柳川泰善氏】
▼ 座談会ステージ全景
【柳川泰善氏】
最初にお話ししたいのは、この山形行き日記の解読に関しての切っ掛けであります。
平成16年に、私が 清河八郎さんのお墓を掃除していた時に、たまたま河北町の議長さんと泥舟研究会の大場勇人さんともう一方三人がお墓に入って来ました。それはどんな理由かと申しますと、平成16年町制施行50周年記念事業として泥舟展をやりたい。ついては泥舟さんの山形行き日記があって、しかもその山形行き日記と、 随行しての記録を書かれた早坂徳之助さんの「庄内紀行高橋泥舟に随従して」というものなど、資料をたくさん持ってこられました。
私も父から、うちには高橋泥舟の書があると聞いていて、一部その関係の資料があったんで、全く見ていない訳では無かったんですが、何しろ難しくて困っていまして、それを読めないままず~っと温めておいたのですが、 一昨年、岩下先生が「旅する思想家清河八郎」と言う、そう言った内容のお話でお出でになった時に、実はこのことについて、平成16年に研究会の大場勇人さんが見えて、庄内のことは庄内で少し調査研究し、解読して欲しいと言うことがあったので、そのことをお伝えして岩下先生に解読をお願いしたのが始まりです。
▼ 柳川泰善氏
今回、本当に岩下先生にお願いして、お三方が完全に解読され、翻刻し、読み下し文に完成したということは、私は、年来の念願が叶ったと言うことを痛切に感じており、 大変有難く思っております。まず最初に御礼申し上げたいと思います。
最初に清川に来るのが9月26日、この冊子で行きますと159ページ、お持ちの方ちょっと見て頂きたいと思います。 26日の日記の最後の方、ページの下段の方の最後から4行目、「黄昏清川の齋藤治兵衛方へ着す。」これがあります。齋藤治兵衛のうちは、清河八郎の生まれた実家のことであります。
その時には、清河八郎の母「亀代」も73歳、喜寿を超えてかくしゃくとしておられまして、大歓迎をして久しぶりにお会いしたので懐かしいと回顧する記事も載っておりました。
それは西遊草で、京都から東海道を下って江戸に来た時に、江戸に20日くらい滞在するんですが、その時に多分泥舟さんと清河八郎さんの母「亀代」さんはお会いしているのではないかと思います。こんなことがあって、非常に歓迎している記事が、随行者であった早坂徳之助の庄内紀行の中に書かれております。
山形行き日記の中で清川を立つと鶴岡に行っております。高橋泥舟の日記としては鶴岡が一番多く書かれております。私は、明治22年頃の鶴岡はどういう状況にあったか知るところではありませんので、今日は、郷土資料館の今野さんにその時代の鶴岡の状況と、それから高橋泥舟と鶴岡の人方との交流について、まずお話し頂ければ有難い。こんな風に思います。今野さんよろしくお願いします。
▼今野章氏
明治22年段階の庄内の状況というものをざっと説明いたしますと、2月11日に大日本帝国憲法が発布されるっていうことで、これに合わせて西郷隆盛の賊名が解かれることになります。それに対して庄内士族たちは南洲翁遺訓の編纂事業をこの年から始めて、翌年から販売に歩く訳なんですけども、まあそういった関係で南洲翁遺訓の編纂を始めたっていうのが一つ大きいことだと思います。それから4月に市制と町村制が施行されるって事があります。6月6日には、鶴岡、酒田で町会議員選挙が始まったっていうことがありまして、憲法が発布されて、高揚した気持ちの中にいたのが、明治22年段階っていう風なことになると思います。
実際に泥舟を訪ねてきた人々っていうのが、一番目として僧侶の方が多いですね。
▼登壇者:【東洋大学文学部教授岩下哲典氏】、【カナダ出身、フリー翻訳家イアンアーシー氏】、【鶴岡市郷土資料館館長補佐今野章氏】、コーディネーター【前庄内町文化財保護審議会会長・清河八郎生家齋藤家菩提寺「金華山歓喜寺」住職柳川泰善氏】
▼ 座談会ステージ全景
【柳川泰善氏】
最初にお話ししたいのは、この山形行き日記の解読に関しての切っ掛けであります。
平成16年に、私が 清河八郎さんのお墓を掃除していた時に、たまたま河北町の議長さんと泥舟研究会の大場勇人さんともう一方三人がお墓に入って来ました。それはどんな理由かと申しますと、平成16年町制施行50周年記念事業として泥舟展をやりたい。ついては泥舟さんの山形行き日記があって、しかもその山形行き日記と、 随行しての記録を書かれた早坂徳之助さんの「庄内紀行高橋泥舟に随従して」というものなど、資料をたくさん持ってこられました。
私も父から、うちには高橋泥舟の書があると聞いていて、一部その関係の資料があったんで、全く見ていない訳では無かったんですが、何しろ難しくて困っていまして、それを読めないままず~っと温めておいたのですが、 一昨年、岩下先生が「旅する思想家清河八郎」と言う、そう言った内容のお話でお出でになった時に、実はこのことについて、平成16年に研究会の大場勇人さんが見えて、庄内のことは庄内で少し調査研究し、解読して欲しいと言うことがあったので、そのことをお伝えして岩下先生に解読をお願いしたのが始まりです。
▼ 柳川泰善氏
今回、本当に岩下先生にお願いして、お三方が完全に解読され、翻刻し、読み下し文に完成したということは、私は、年来の念願が叶ったと言うことを痛切に感じており、 大変有難く思っております。まず最初に御礼申し上げたいと思います。
最初に清川に来るのが9月26日、この冊子で行きますと159ページ、お持ちの方ちょっと見て頂きたいと思います。 26日の日記の最後の方、ページの下段の方の最後から4行目、「黄昏清川の齋藤治兵衛方へ着す。」これがあります。齋藤治兵衛のうちは、清河八郎の生まれた実家のことであります。
その時には、清河八郎の母「亀代」も73歳、喜寿を超えてかくしゃくとしておられまして、大歓迎をして久しぶりにお会いしたので懐かしいと回顧する記事も載っておりました。
それは西遊草で、京都から東海道を下って江戸に来た時に、江戸に20日くらい滞在するんですが、その時に多分泥舟さんと清河八郎さんの母「亀代」さんはお会いしているのではないかと思います。こんなことがあって、非常に歓迎している記事が、随行者であった早坂徳之助の庄内紀行の中に書かれております。
山形行き日記の中で清川を立つと鶴岡に行っております。高橋泥舟の日記としては鶴岡が一番多く書かれております。私は、明治22年頃の鶴岡はどういう状況にあったか知るところではありませんので、今日は、郷土資料館の今野さんにその時代の鶴岡の状況と、それから高橋泥舟と鶴岡の人方との交流について、まずお話し頂ければ有難い。こんな風に思います。今野さんよろしくお願いします。
▼今野章氏
明治22年段階の庄内の状況というものをざっと説明いたしますと、2月11日に大日本帝国憲法が発布されるっていうことで、これに合わせて西郷隆盛の賊名が解かれることになります。それに対して庄内士族たちは南洲翁遺訓の編纂事業をこの年から始めて、翌年から販売に歩く訳なんですけども、まあそういった関係で南洲翁遺訓の編纂を始めたっていうのが一つ大きいことだと思います。それから4月に市制と町村制が施行されるって事があります。6月6日には、鶴岡、酒田で町会議員選挙が始まったっていうことがありまして、憲法が発布されて、高揚した気持ちの中にいたのが、明治22年段階っていう風なことになると思います。
実際に泥舟を訪ねてきた人々っていうのが、一番目として僧侶の方が多いですね。
10月6日に忠愛学校の開所式に泥舟が参加することになります。忠愛学校の言うのは何で有名かというと、鶴岡が給食発祥の地の言われておりますが、この忠愛学校が、全国で初めて給食を始めたと言うことで有名になっております。
二番目に士族についてですが、9月29日には幕末、庄内藩の江戸家老だった、松平権十郎に「伝言頼み置く」という文言が日記にあります。権十郎とはもしかしたら泥舟と面識があったのかも知れません。
10月12日には、江戸の留守居役を務めていた黒川と言う人物が訪ねて来ます。黒川は、清河八郎が庄内藩邸に建白書を持って来たときの実際取り扱った人物なんですけども、もしかしたら清河と面識があったのかなと思うんですけども、それと関連して泥舟を訪ねてきたのかな っていうのがこの文章から読み取れます。
あと、西田川郡役所の郡長が訪ねてきたり、役人が訪ねてきたりしております。
日記で鶴岡で面白かったのは、いろいろな料亭の名前が出てたことが大変面白く拝見しました。明治26年段階だと鶴岡町では、飲食店が81軒、これ明治の当館に残っている税金関係の資料から見て取れるんですけども、81軒飲食店があってそのうち34軒が料亭になっております。泥舟が泊まっていたのが「鶴寿亭」というところで、現在の大宝館の前あたりにあった旅館兼料理店だと思うんですけども、そういった料亭が賑やかだった所の中に泥舟が泊まっていた、そう言った面があるのが、ざっとこの日記を見た鶴岡滞在中のことになります。まずは以上。
以上でシンポジウム一部と二部の全日程の終了となりました。
この後、質問の時間を設けたところ、鶴岡市立大山小学校同窓会長さんから次のような御礼の言葉がありました。「大山小学校の古い校舎に横幅約5尺くらいの扁額があります。何故ここに泥舟さんの額があるかと言うことなんですが、隣の西郷小学校には先ほどお話ありましたように、西郷小学校という書がありまして、それを木に彫ってあります。それで確か私も泥舟さんが、清河八郎先生の墓参りに来て、そしてこちらの方に寄ったとお聞きしておりますけど、今日、先生方のお話を聞きまして本当に確信しました。ありがとうございました。以上です。」こんな感想を述べて頂きました。
髙橋泥舟は清河八郎が浪士組を結成した時の取締役となり、八郎の生き方に共感した人物であることがシンポジウムを通し再確認することが出来ました。
現在の清川にも髙橋泥舟来訪の地であることを記し、髙橋泥舟山形紀行の足跡として、歴史の一ページを蘇らせることが必要ではないだろうか。と独り秘かに思ったシンポジウムでありました。
二番目に士族についてですが、9月29日には幕末、庄内藩の江戸家老だった、松平権十郎に「伝言頼み置く」という文言が日記にあります。権十郎とはもしかしたら泥舟と面識があったのかも知れません。
10月12日には、江戸の留守居役を務めていた黒川と言う人物が訪ねて来ます。黒川は、清河八郎が庄内藩邸に建白書を持って来たときの実際取り扱った人物なんですけども、もしかしたら清河と面識があったのかなと思うんですけども、それと関連して泥舟を訪ねてきたのかな っていうのがこの文章から読み取れます。
あと、西田川郡役所の郡長が訪ねてきたり、役人が訪ねてきたりしております。
日記で鶴岡で面白かったのは、いろいろな料亭の名前が出てたことが大変面白く拝見しました。明治26年段階だと鶴岡町では、飲食店が81軒、これ明治の当館に残っている税金関係の資料から見て取れるんですけども、81軒飲食店があってそのうち34軒が料亭になっております。泥舟が泊まっていたのが「鶴寿亭」というところで、現在の大宝館の前あたりにあった旅館兼料理店だと思うんですけども、そういった料亭が賑やかだった所の中に泥舟が泊まっていた、そう言った面があるのが、ざっとこの日記を見た鶴岡滞在中のことになります。まずは以上。
【柳川泰善氏】
ありがとうございました。まず概要をお話ししていただきました。
続いて、アーシーさんから、皆さん、この難解な泥舟さんの書かれた日記をカナダ出身のアーシーさんが解読されたっていうことに対して、崇敬の念だけでなくて、何とも考えがつかないような才能をお持ちなのかなと、こんなふうに思っておりますが、皆さんいかがですか、(会場から拍手多数)ありがとうございます。この難解な解読をされたお話をいただきましたが、裏話を少しお話ししていただければありがたい 。
続いて、アーシーさんから、皆さん、この難解な泥舟さんの書かれた日記をカナダ出身のアーシーさんが解読されたっていうことに対して、崇敬の念だけでなくて、何とも考えがつかないような才能をお持ちなのかなと、こんなふうに思っておりますが、皆さんいかがですか、(会場から拍手多数)ありがとうございます。この難解な解読をされたお話をいただきましたが、裏話を少しお話ししていただければありがたい 。
▼イアンアーシー氏
私は才能など全くなくて、あの~単なる物好きです。それでこういう昔の資料に、昔からこういうものに興味があるんですけれども、大学で古代ギリシャ語や、ラテン語を勉強するぐらいだからとにかく古いもの、歴史的なもの、そういうようなものに血が騒ぐという性格です。
解読し始めたのはちょうどコロナ禍の中だったので、3人でオンライン会議を開いてそれで少しずつ解読していきました。
今日はいらっしゃらないんですけれども、もう一人の参加者、服部さんというお方ですが、もう80歳を超えてるにもかかわらず、もの凄く良く読めるし頭の切れるお方ですけれども、実はこの入力作業を担当してくださったのはその服部さんという方だったんです。
どういうような過程でやったかというと、まず3人でオンラインで解読をして、その服部さんはそれを全部入力してくれるという形になっていて、それで コロナ禍が少し収まってから、それから服部さんと私の2人が実際にあって、その解読文を確認するという形でした。
どこであっていたかと言うと、大体が喫茶店でこういう古い文書を確認していたんですが、私はこう言う顔ですので、二人で会っていると、周りの人はこれから英会話のレッスンでも始まるのではと思っていたら、突然、「なんとか候、かんとか候」が始まって驚いたのではないでしょうか。
【岩下哲典氏】
私は才能など全くなくて、あの~単なる物好きです。それでこういう昔の資料に、昔からこういうものに興味があるんですけれども、大学で古代ギリシャ語や、ラテン語を勉強するぐらいだからとにかく古いもの、歴史的なもの、そういうようなものに血が騒ぐという性格です。
解読し始めたのはちょうどコロナ禍の中だったので、3人でオンライン会議を開いてそれで少しずつ解読していきました。
今日はいらっしゃらないんですけれども、もう一人の参加者、服部さんというお方ですが、もう80歳を超えてるにもかかわらず、もの凄く良く読めるし頭の切れるお方ですけれども、実はこの入力作業を担当してくださったのはその服部さんという方だったんです。
どういうような過程でやったかというと、まず3人でオンラインで解読をして、その服部さんはそれを全部入力してくれるという形になっていて、それで コロナ禍が少し収まってから、それから服部さんと私の2人が実際にあって、その解読文を確認するという形でした。
どこであっていたかと言うと、大体が喫茶店でこういう古い文書を確認していたんですが、私はこう言う顔ですので、二人で会っていると、周りの人はこれから英会話のレッスンでも始まるのではと思っていたら、突然、「なんとか候、かんとか候」が始まって驚いたのではないでしょうか。
【岩下哲典氏】
ちょっと補足しますが、服部さんは、名古屋大学を出ておられてその後銀行にお勤めだったんですね。銀行にお勤め だったので数字に非常に強くて今回のこれ泥舟さんの業務日誌みたいなもんなんで、どのくらいのまああのお金というか、その何をまあ誰からいくらもらったとか、そういうのがですね、やっぱり数字に強い服部さんはよく分かったみたいで、非常にありがたかったです。
そろそろ時間なんでしょうが、最後に今野さん、10月24日に常念寺の住職さんが髙橋泥舟さんとの面会の時のお話をできればと思っておりましたが。
▼今野章氏
【柳川泰善氏】
岩下先生、この幕末三舟というのが明治時代になってから、それぞれ泥舟、鉄舟、海舟と言う号が有名になったというお話がありましたが、この三人の書ですね、書、それから、高橋泥舟さんの様な、あ~言う難解な筆さばきと言うのはどのような表現なのかとか、その辺先生お分かりでしたらちょっとお話ししていただければありがたい。
▼岩下哲典氏
「老梅枝」と言う言葉がある様ですが、老梅の枝というそういう言葉があります。それに値する、そんな風に思います。アーシーさん血の騒ぐお話をしていただいてありがとうございました。
実は私が先代住職から聞いてる話では泥舟さんが庄内に来たっていうのは目的が二つあるんだと、一つは先程来お話あったように清河八郎さんのお墓にお参りに来るのが一つの目的だった。
それからもう一つは、善宝寺にも二泊か三泊くらい泊まっているんですが、当時、曹洞宗の本山であった能登にある總持寺の住職をされた奕堂禅師(えきどうぜんじ)が、秋田の方に用がありその帰りに体調を壊し、善宝寺で亡くなっています。泥舟さんと奕堂禅師との関係は、河北町谷地の長谷寺の仁藤巨寛(にとうきょかん)さんが奕堂禅師の弟子にあたると、そう言うご縁があったということなんです。
この山形行き日記の163ページの後ろから3行目です。同十日晴れ夕刻雨、終日揮毫と、こう言う風になってるんですが、グラビアを作る段階で岩下先生と何回かやり取りして、と申しますのは、この庄内紀行髙橋泥舟に随従してしてということで、早坂徳之助さんの随行の文章があります。そこに「泥舟は善宝寺の山に登り仁藤禅師の師で、奕堂禅師の墳墓に拝す。」という言葉があります。このグラビアの 8ページの一番最後の方に善宝寺の建物の左の写真(奕堂禅師荼毘地)を載せていただきました。▼岩下哲典氏
大体あの三幅対であるケースが多いんですよね。真ん中が海舟で、こちら側に鉄舟で、こっちが泥舟と有名なご三幅、ご本尊が海舟で、脇侍で鉄舟、泥舟っていうのが普通なんですけど、皆さん見ていただいてまあ好き不好きあると思いますけど、私は、なんて言うんですか雄渾な字を書くのは泥舟さんだと思います。
昨日、歓喜寺さんで、鉄舟さんの字を見せていただきましたけれども素晴らしい。その~筆使いも力強くて圧倒されるのがこれ鉄舟さんだと思います。
昨日、歓喜寺さんで、鉄舟さんの字を見せていただきましたけれども素晴らしい。その~筆使いも力強くて圧倒されるのがこれ鉄舟さんだと思います。
泥舟さんの字は、まあ~表現するなら、こんな感じですよね。これ、あの~梅の古木ですよね。梅の古木が伸びていくような、こっち行って、こっち行って、こっちの様な、ある意味すごく難解で実はあの柳川先生には申し訳ないですけど、これは、コンプリート(完成形)なもの、完成したものでは実はなくて、まあ三つぐらいまた見つかりましたよね。こういう風に読んだ方がいいんじゃないかと、やっぱりこう読んだけれども、もしかしたらこうではないか っていうのがですね、やっぱりあるんですね。 なかなかの完成していない部分もあるんですけども、そのくらい難しいという風にご理解いただければいいと思います。
▼泥舟の字体は梅の古木と表現する岩下哲典氏
ただ泥舟さんのいわゆる草書体の字はもうこんな感じの梅の古木なんですが、楷書を是非ご覧ください。楷書はですね、本当に惚れ惚れするくらい良い字を書きます。清河八郎のお墓の字は泥舟さん(柳川氏:両親も)両親もですね。 その字はもう本当に楷書で綺麗な楷書でですね 是非これはあの小学校のお習字のお手本にしていただきたいくらいのあの字だと思います。
▼泥舟の字体は梅の古木と表現する岩下哲典氏
ただ泥舟さんのいわゆる草書体の字はもうこんな感じの梅の古木なんですが、楷書を是非ご覧ください。楷書はですね、本当に惚れ惚れするくらい良い字を書きます。清河八郎のお墓の字は泥舟さん(柳川氏:両親も)両親もですね。 その字はもう本当に楷書で綺麗な楷書でですね 是非これはあの小学校のお習字のお手本にしていただきたいくらいのあの字だと思います。
最後にあの海舟ですけれども海舟さんの字もですね、あの個性的でいいんですが、私はどうも好きになれないんですね。なんて言ったらいいんでしょうかね、その鉄舟さんの雄渾な字と泥舟さんの個性的な字の間に挟まって、実はあんまり個性的でも何でもない字っていうのが、海舟の字じゃないかな っていうふうに思って、ちょっと改修してもらいたい(会場から笑い)なと思う次第でございます。海舟のファンの人に怒られそうですけれども。まあなんとなくそんな気がいたします。以上です。
▼柳川泰善氏
▼柳川泰善氏
「老梅枝」と言う言葉がある様ですが、老梅の枝というそういう言葉があります。それに値する、そんな風に思います。アーシーさん血の騒ぐお話をしていただいてありがとうございました。
実は私が先代住職から聞いてる話では泥舟さんが庄内に来たっていうのは目的が二つあるんだと、一つは先程来お話あったように清河八郎さんのお墓にお参りに来るのが一つの目的だった。
それからもう一つは、善宝寺にも二泊か三泊くらい泊まっているんですが、当時、曹洞宗の本山であった能登にある總持寺の住職をされた奕堂禅師(えきどうぜんじ)が、秋田の方に用がありその帰りに体調を壊し、善宝寺で亡くなっています。泥舟さんと奕堂禅師との関係は、河北町谷地の長谷寺の仁藤巨寛(にとうきょかん)さんが奕堂禅師の弟子にあたると、そう言うご縁があったということなんです。
そろそろ時間なんでしょうが、最後に今野さん、10月24日に常念寺の住職さんが髙橋泥舟さんとの面会の時のお話をできればと思っておりましたが。
▼今野章氏
さっき鶴岡の話をしましたので、今度は酒田の話をしたいと思います。
10月20日に中川一(なかがわはじめ)と言う人が訪ねてきます。それこそ先程アーシーさんが言った葡萄酒を持って訪ねて来る人なんですけれど、この人は新徴組の隊士で、浪士組として江戸から京都に行った人でありまして、越前の浪士だったんですけども、その当時から泥舟と面識があった人になります。
新徴組は、大体、明治7年時点でほとんどが鶴岡から郷里の方に戻って、明治8年時点では39人しかいなかったんですけども、中川一はその中の一人でありまして、遊佐の方の戸長として、高瀬村の戸長をしていた人で、この人も懐かしさに泥舟が来ていると言うことで会いに来ています。
先ほど、西郷の話をちょっとしましたけれども、この年、この日記の中で髙橋直勝と言う人が10月9日に清河の贈位のために上京します。 さっき西郷の賊名が解かれたって言うことに関連すると思うんですけども、やっぱり清河に対しても贈位を与えて欲しいと言う、そう言った意味もあって髙橋直勝と言う人が上京するんですけども、 この人も泥舟を訪ねてきます。
10月29日、酒田に居る時には、清河八郎について世に伝わることはいろいろあるけれども、やっぱり評価されるべきだということで、清河に対する一番古い評伝を書いてるのがこの 高橋直勝で、明治22年になっております。
いろんな人が酒田にいても鶴岡からら訪ねてきたりしていたと言うのが、鶴岡滞在、酒田滞在っていう風になって、結局は 29日に帰ろうとしたところ名残り惜しくて もう一泊、そういうような感じで、大変泥舟と庄内の人は交流が厚かったって言うのが、この日記から見て取れるんじゃないかなと思ったところです。
【柳川泰善氏】
まだまだ尽きないんですけども、限られた時間で今日お帰りになると言うことであります。岩下先生何か。
そうですね、折角ですから大河ドラマのことについて、今日、大河ドラマの方も来ていらっしゃいますのでさせて頂きたいと思いますが、
今、あの~大河ドラマや朝の連ドラなんですけど、私の印象では、女性が主人公というようなことになっていますので、できればですね、今からだとちょっと難しいのかもしれませんけれども、お蓮さんを中心にしてみたらどうかなという風に思いました。これは悲劇の女性でありますけども、やっぱり一途な恋というか愛をですね、貫いてるという風に思います。
ある意味封建社会の犠牲者でもあると思います。 昨日あの清河八郎記念館の手紙を拝見しましたけれども、非常にこの学識レベルの高い人だと思います。
歓喜寺さんのお墓を見ても、あの正妻同様に弔って欲しいんだという気持ちが非常によく表れています。
これは対等な、近世の男女関係では珍しい 対等な関係でありまして、まあ蓮という名前は連なるっていうのはですね、対等な人間同士の集まりみたいな意味もありますので、 やっぱり現代のその平等な世の中に一石投じる ドラマになりうるという風に私は思います。
ですので、この髙橋泥舟の、山形行き日記のですね、泥舟が歓喜寺さんのお墓にお参りする時に泥舟さんとしては、お蓮さんのお墓にも、お参りしたと言う風に、まあ~泥舟は書いていませんけれども、その場面がドラマの最後に来るといいのかなという風に思います。
【柳川泰善氏】
え~と、大河ドラマの会長さんいかがでしょうか(会場から「同感」の声有り)まだ話は尽きないんですけども、時間が迫っておりますのでこの辺で閉じさせていただきたいと思います。
先ほど 高橋直勝さんという方のお話がありましたが、清河八郎さんは明治41年に正四位をいただくわけですが、その運動を山形県知事を始め、庄内挙げて市町村の首長さんたちが署名運動をしている最中に、この高橋直勝さんは県会議員をやっておりまして、先ほど今野さんからありましたが、明治22年に一番早く清河八郎伝を書かれた方なんです。
この方が、髙橋泥舟が山形の方に行っても毎日位高橋泥舟さんに会っているんですが、中身は分かりませんが運動展開中に、助言を頂いていたのではないかと言うことが想像されます。
この方が、髙橋泥舟が山形の方に行っても毎日位高橋泥舟さんに会っているんですが、中身は分かりませんが運動展開中に、助言を頂いていたのではないかと言うことが想像されます。
まだまだ、この山形日記から浮かんでくるものが多々ありますが、原文が翻刻されて読み下し文になったのは、先ほどの講演の中にもありました通り、 山形県では初めてであります。全国でも初めてだと言うことで、誇りの有る庄内紀行、特に清河八郎さんを検証する意味で、非常に大切な資料だと私は思っております。
どうぞこれから皆さんこの山形行き日記を開いて、これからやっと研究が始まったと、あるいはそういう資料であるということを思っていただいて、皆様方からも色々勉強していただければありがたいと、こんなふうに思っております。
どうぞこれから皆さんこの山形行き日記を開いて、これからやっと研究が始まったと、あるいはそういう資料であるということを思っていただいて、皆様方からも色々勉強していただければありがたいと、こんなふうに思っております。
大変拙い司会で進めてまいりまして、事前に打ち合わせは若干いたしましたが、その通りには行かないところもあったかと思います。時間に限りありますのでこの辺で終わりにさせていただきました。お三方、ありがとうございました。(会場から盛大に拍手)以上で座談会を終わります。ありがとうございました。
以上でシンポジウム一部と二部の全日程の終了となりました。
この後、質問の時間を設けたところ、鶴岡市立大山小学校同窓会長さんから次のような御礼の言葉がありました。「大山小学校の古い校舎に横幅約5尺くらいの扁額があります。何故ここに泥舟さんの額があるかと言うことなんですが、隣の西郷小学校には先ほどお話ありましたように、西郷小学校という書がありまして、それを木に彫ってあります。それで確か私も泥舟さんが、清河八郎先生の墓参りに来て、そしてこちらの方に寄ったとお聞きしておりますけど、今日、先生方のお話を聞きまして本当に確信しました。ありがとうございました。以上です。」こんな感想を述べて頂きました。
髙橋泥舟は清河八郎が浪士組を結成した時の取締役となり、八郎の生き方に共感した人物であることがシンポジウムを通し再確認することが出来ました。
現在の清川にも髙橋泥舟来訪の地であることを記し、髙橋泥舟山形紀行の足跡として、歴史の一ページを蘇らせることが必要ではないだろうか。と独り秘かに思ったシンポジウムでありました。
この庄内町史資料第七号は、二部構成になっており、第一部で明治大学名誉教授徳田武氏が、清河八郎が嘉永3(1850)年7月3日から9月7日迄の間、京都から長崎までの紀行文を解読したものを掲載しています。
徳田氏は、文中で、清河八郎が長崎行の心構えとして「各土地の経世風土と人情世態とを明らかにし、読書に拠る見識を以って、これを考慮し、その成果を経世済民に資する。」と言う目的意識を以って旅行すると書いており、長崎と言う土地が備える国際性、高名な文人たちとの情報収集、軍事的な観察など多くのことを目的として挙げています。
原文は漢文で、管原昭治氏(庄内町清河八郎関係調査員)が翻刻し、徳田先生が読み下し文と現代語訳文を掲載しています。
徳田氏は、文中で、清河八郎が長崎行の心構えとして「各土地の経世風土と人情世態とを明らかにし、読書に拠る見識を以って、これを考慮し、その成果を経世済民に資する。」と言う目的意識を以って旅行すると書いており、長崎と言う土地が備える国際性、高名な文人たちとの情報収集、軍事的な観察など多くのことを目的として挙げています。
原文は漢文で、管原昭治氏(庄内町清河八郎関係調査員)が翻刻し、徳田先生が読み下し文と現代語訳文を掲載しています。
第二部で、清河八郎と盟友であった、幕末三舟の一人、髙橋泥舟が明治22年に山形県を訪れた際の旅日記を、東洋大学文学部教授岩下哲典氏と、カナダ出身フリー翻訳家イアン・アーシー氏、それに元銀行員服部英昭氏の三人で翻刻し、併せて読み下し文も作成して掲載されています。
A4判、全198頁になっています。
販売定価は:1,400円(消費税込み)
+送料+振込手数料(但し振り込みの場合に限る)
購入希望の方は、次の場所で直接お買い求めできます。また郵送希望の方は、郵便番号、住所、氏名、電話番号をお知らせ願います。メールの場合はファイル添付はご遠慮頂き、直接本文に必要事項を書き込んでください。
①庄内町教育委員会社会教育課
電話0234-43-0194
FAX0234-42-0811
e-mail:syakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
e-mail:spcp4yb9@pearl.ocn.ne.jp③清川歴史公園 荘内藩清川関所
④庄内町立図書館
電話:0234-43-3039
FAX:0234-43-4762
e-mail:tosho@town.shonai.yamagata.jp※ 清河八郎の九州紀行文「西遊記事」、それに幕末三舟の一人高橋泥舟の「山形行旅日記」共、日本で最初に翻刻し、分かり易い読み下し文を掲載した貴重な資料集です。
A4判、全198頁になっています。
販売定価は:1,400円(消費税込み)
+送料+振込手数料(但し振り込みの場合に限る)
購入希望の方は、次の場所で直接お買い求めできます。また郵送希望の方は、郵便番号、住所、氏名、電話番号をお知らせ願います。メールの場合はファイル添付はご遠慮頂き、直接本文に必要事項を書き込んでください。
①庄内町教育委員会社会教育課
電話0234-43-0194
FAX0234-42-0811
e-mail:syakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
② 公益財団法人清河八郎記念館
電話0234-57-2104
FAX0234-57-2104 電話0234-57-2104
e-mail:spcp4yb9@pearl.ocn.ne.jp③清川歴史公園 荘内藩清川関所
電話0234-25-5885
FAX0234-25-5885④庄内町立図書館
電話:0234-43-3039
FAX:0234-43-4762
e-mail:tosho@town.shonai.yamagata.jp※ 清河八郎の九州紀行文「西遊記事」、それに幕末三舟の一人高橋泥舟の「山形行旅日記」共、日本で最初に翻刻し、分かり易い読み下し文を掲載した貴重な資料集です。
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