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12.10.14:41

八郎の父・雷山(秀寿(ひでとし))

八郎の父は雷山(秀寿(ひでとし))と言い、祖父昌義の長子。

 
 弘化元年(1844年)、35歳で斎藤家の家督を相続し、代々の慣わしにより「治兵衛」を襲名した。号ははじめ柳眉とし、後に雷山と改めた。
 20歳のとき鶴岡荒町の富商三井屋吉の三女であった亀代(当時14歳)と結婚、天保元年(1830年)10月10日に八郎が長子として誕生する。

 雷山は生真面目な性格で昼間は家業に勤しみつつ、文化人でもあった。夜は燈火の下で書を読み独学に励んだという。
 書は特に歴史・文学の類を好み、中でも唐詩選を愛し啓蒙していたため全巻暗誦し、八郎にも学ばせている。また、古法帖を手本として書道を嗜み、書画刀剣の趣味も深かった。八郎の秀才肌は父の影響とも言えるだろう。
 俳諧は庄内飽海郡松山の村田柳支について学んだ。柳支の没後、「見風舎句集」一巻を編み、師恩に報じた。
 斎藤家では客を喜び、雷山が風雅を以って親交し、文通した人物は130人にも及んだと言われる。その書簡を編して「到来集」四巻を執筆している。雅友の中で最も敬服したと言われているのが藤本鉄石だった。
 藤本は、遊学の折、弘化3年(1846年)に斎藤家に立ち寄っている。八郎の祖父・昌義はえらく藤本を気に入り、客人として藤本の面倒見ている。藤本も斎藤家を気に入り、1ヶ月ほど清川に滞在している。八郎(元司)17歳のときで、八郎自身、藤本に強い興味を抱き、藤本との出会いが少年八郎に多大な影響を与え、この後、八郎は立志のもと江戸への遊学を願うようになる。後の清河八郎たる人物を開眼させるきっかけを作ったのが藤本であったのかもしれない。
 
 また、雷山は旅行を好み、庄内の三名湯といわれる田川・湯野浜・温海の温泉、新庄の瀬見温泉などにはよく出かけた。また登山も好み、羽黒山には毎年二度は必ず登ったと言われる。

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12.10.14:37

二つの意味・・・尊皇攘夷

 尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現で、江戸幕末に革命の旗印になり、各藩や公家または幕府内の過激派の間で熱く論じられた思想である。国の存在の根拠としての尊皇(尊王)と、侵略・侵入してくる外国に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。 
 初めて「尊皇攘夷」という言葉が使われたのは、天保九年(1838年)、水戸藩で盛んだった「水戸学」を成立させた藤田東湖が著した「弘道館記」。水戸学とは、身分の上下について明確にし、天皇という存在を特別視したもの。また、もともと「尊皇」と「攘夷」は全く異なる言葉である。
 江戸時代後期、すでに寛政四年(1792年)に根室、文政七年(1824年)には水戸へ外国船が上陸をしていた。長い鎖国状態だった日本に対外危機意識は薄く、また政治不安も重なり、国情を統制する必要があった。そこで誕生したのが「尊王」の思想であった。古から土地神、日本の国を守る種々の神を祭る儀式を執り行う天皇は最も敬うべき存在であり、その天皇から政治権限を委譲されている将軍も敬い、その将軍を支える諸大名も敬う、というのが尊王思想の根底にあり、国勢強化を目的とし作られた思想ともいえる。
 一方の「攘夷」はというと、言葉だけをみると夷荻をうち払え、というような意味になるが、すでに外国の脅威にさらされていた水戸においては、外国勢力の「攘夷」など現時点での日本では不可能であることは自明の理であった。しかし、かといって外国の侵略に対し甘受するわけもいかず、国力の強化は必然。その為にあえて「攘夷」という言葉を使って人々の危機意識を高めた。こうして生まれた「尊皇攘夷」という言葉の本来の意味は、「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだった。

●「尊皇攘夷」思想の変化
 幕府養護のため成立したこの思想が変化を遂げるきっかけとなったのは安政五年(1858年)の日米修好通商条約調印。時の大老・井伊直弼が調印し、横浜他数カ所を開港した条約である。これにより外国との貿易が行われるようになったが、余りにも不平等なその内容に国勢は悪化の一途を辿った。しかもこの調印に先立ち天皇の勅許を得る必要があったのだが、天皇は最後まで調印を認めなかったのである。「国体を汚す」ことを畏れるのがその真意であったのだが、幕府としては調印を拒否して侵略の憂き目をみるよりは、と勅許を得ずに調印を断行したのである。民衆の立場にしてみれば、幕府が勝手に調印したために自分たちの生活が苦しくなった、のである。幕府を見捨てるのも当然であろう。そういう時代の流れの中で、幕府勢力に対して反感をもっていた外様大名や急進派の志士たちが、今度はその幕府を倒すために「尊皇攘夷」を唱えだしたのである。幕藩体制を維持するために造られた身分秩序の思想であったが、幕府への不満が増幅する中でその本来の目的から路線が外れ、身分秩序のみを主眼に置くようになった。民衆の生活を守るべき立場の幕府であるのにそれが出来ないのなら、その列から外してしまえ、「天皇を立て外国勢力を倒せ」という風に変わっていったのである。それはそのまま「天皇をないがしろにし、うち払うべき外国に開港を行った幕府を倒せ」ということにつながっていった。この思想はあっというまに民衆や下級武士の間に浸透していった。そしてまさにこれが一般的に浸透している「尊皇攘夷思想」なのである。
 つまり、「尊皇攘夷」思想は2種類あるのである。学識高い清河八郎であるので、水戸学の流れを汲む本来の「尊皇攘夷」の思想はもちろん、不平等条約締結後の「尊王攘夷」の意も十分理解していたはず。では、八郎の唱えた「尊王攘夷」はどちらであったのか?

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12.10.14:35

斎藤家と酒造業

●斎藤家のルーツ

 斎藤家のはじまりは、清和源氏の分かれである越智氏が京都から下ってきて斎藤を名乗ったという。つまり平安末期から鎌倉時代初期にかけての旧家で、南北朝時代には斎藤外記という武将がかなりの戦功をあげたらしい。伝説では、文治2年(1186年)、源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家にのがれる途中、清川に寄っており、その時に斎藤家が世話し、義経から鬼王丸という刀を与えられたという。
 源義経が清川に立ち寄ったことは有名で、御諸皇子神社で一夜を明かし、清川から最上川を船で上ったと「義経記」に出てくる。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。

 八郎の祖母は宮曽根村(余目地区)佐藤市郎左右衛門の出で、義経に忠誠をつくした佐藤継信の子孫だという。庄内有数の名門である。

 斎藤家がこの地で酒造業を始めたのは江戸初期、酒井家が14万石庄内藩主として封ぜられた頃からのことで、醸造石数は500石前後、一升瓶にしておよそ5万本に当たる。
(斎藤家の田地は、清川村内には30石、立谷沢村に100石、狩川村とその付近に400石あったという。)当主は代々治兵衛と称し、小売専門だった。
 文化・文政の頃から嘉永・安政にかけて、最上川回船の繁栄にともない、清川はまるで市のような賑わいをみせ、斎藤家の門前は酒を求める者が明け方から暮まで群がり店の者が休む間もない程だったという。
 また、灘地方の酒造家は原料米の仕入れが経費の65%であるのに対し、斎藤家では自家保存米を使うために生産経費が安く上がり、小売専門なので容器代はかからず、運送賃もかからない。そのため斎藤家の利益は計り知れないと言われ、文字通り大金持ちだった。

 当時は酒が現在よりはるかに高級品だったので、酒一升をためしに3千円と換算してみよう。それが、5万本だから、年収1億5千万円になる。
 江戸時代、江戸で生活をする人々は月に1両あれば1家族がなんとかやりくりできていた。一両を5万円と考えると、一般庶民の生活費は年間60万円程度である。斎藤家がいかに大金持ちだったかわかる。
 もっとも斎藤家の収入は酒造だけではなく、立谷沢川から採れる砂金を取り扱っていたのである。農民が川で砂金を採ってくると斎藤家が買い取り、それを酒田の豪商本間家にまとめて持っていく。はたしてこれがどれほどの金額になったかはわからないが、斎藤家が清川でどれほどの有力者であったかは想像がつくだろう。

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12.10.14:33

北辰一刀流剣術



北辰一刀流剣術(ほくしんいっとうりゅうけんじゅつ)とは、幕末の剣豪、千葉周作(右写真)が創始した日本の剣術の流派の1つで幕末三大道場の一つにも数えられる。
 清河八郎は、嘉永4年(1851年)2月1日から、この神田お玉が池の北辰一刀流千葉周作道場「玄武館」に通い始めた。八郎22歳の時だった。田舎修行3年は江戸修行1年に当たり、なかでも玄武館は名門中の名門。普通、道場には5日に1日、月に6日通うのだが、八郎は毎月20日~25日くらい通い、平日の2倍は稽古をする寒稽古ともなると、1日も欠かさず出席し、めきめき腕を上げた。
 普通、「初目録」をもらうのに2,3年かかるところ、八郎はわずか1年でもらっている。その上が「中目録免許」、さらに上が「大目録皆伝」となる。中目録免許をもらうと師範になれ、自分の剣道場を開ける。八郎は29歳で中目録、31歳で大目録免許を得た。

■幕末江戸三大道場
●玄武館(北辰一刀流)
 文政5年(1822年)
 日本橋品川町・神田お玉ヶ池に千葉周作が開設。
●練兵館(神道無念流)
 文政9年(1826年)
 九段下神田俎橋畔(現在の靖国神社境内)に斎藤弥九郎が開設。
●士学館(鏡新明智流)
 京橋蜊河岸に桃井春蔵が開設。

「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と言われた。

 北辰一刀流剣術は、中西派一刀流剣術の流れを汲む流派であり、その体系は剣術、薙刀術からなる。千葉周作による合理的な指導法により、多くの門人を輩出した。周作が幼少より学んだ北辰夢想流と最後に学んだ中西派一刀流を統合して創始された。
 また、他の一刀流系の流派が五~七段階の段位を設けているのに対し、当流においては初目録、中目録、大目録皆伝の三段階にまで簡略化されている点や、初心者でも分かりやすい教授方法の導入したこと等の特徴を持っている。

 門弟としては、八郎以外では、八郎の朋友・山岡鉄太郎(鉄舟)、後の新撰組・藤堂平助・山南敬助・伊東甲子太郎・服部武雄らも学んだといわれる。なお、坂本龍馬も北辰一刀流だが、龍馬は周作の弟・定吉に師事しており、直接の弟子ではない。
 現在では北辰一刀流の道場がいくつか現存している。日本古武道協会に加盟している茨城県、水戸の東武館をはじめ東京都杉並区には玄武館、日本伝統技術保存会の道場がある。

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12.07.17:16

清河神社屋根改修工事竣工式典

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 11月7日、清河神社で、清河神社屋根改修工事竣工式典が開催されました。屋根改修にあたっては、町内外の皆様から寄付を募り、その寄付金によって工事が進められました。
 式典当日は、神事がとり行われた後、竣工式典のはじめに、屋根改修へ多大なる貢献をされた方々に、清河神社の正木尚文宮司から、感謝状が手渡されました。
 清河八郎を祀る神社がきれいになり、再来年迎える清河八郎没後150周年祭へ向けての準備も整いました。

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