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12.10.14:37

二つの意味・・・尊皇攘夷

 尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現で、江戸幕末に革命の旗印になり、各藩や公家または幕府内の過激派の間で熱く論じられた思想である。国の存在の根拠としての尊皇(尊王)と、侵略・侵入してくる外国に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。 
 初めて「尊皇攘夷」という言葉が使われたのは、天保九年(1838年)、水戸藩で盛んだった「水戸学」を成立させた藤田東湖が著した「弘道館記」。水戸学とは、身分の上下について明確にし、天皇という存在を特別視したもの。また、もともと「尊皇」と「攘夷」は全く異なる言葉である。
 江戸時代後期、すでに寛政四年(1792年)に根室、文政七年(1824年)には水戸へ外国船が上陸をしていた。長い鎖国状態だった日本に対外危機意識は薄く、また政治不安も重なり、国情を統制する必要があった。そこで誕生したのが「尊王」の思想であった。古から土地神、日本の国を守る種々の神を祭る儀式を執り行う天皇は最も敬うべき存在であり、その天皇から政治権限を委譲されている将軍も敬い、その将軍を支える諸大名も敬う、というのが尊王思想の根底にあり、国勢強化を目的とし作られた思想ともいえる。
 一方の「攘夷」はというと、言葉だけをみると夷荻をうち払え、というような意味になるが、すでに外国の脅威にさらされていた水戸においては、外国勢力の「攘夷」など現時点での日本では不可能であることは自明の理であった。しかし、かといって外国の侵略に対し甘受するわけもいかず、国力の強化は必然。その為にあえて「攘夷」という言葉を使って人々の危機意識を高めた。こうして生まれた「尊皇攘夷」という言葉の本来の意味は、「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだった。

●「尊皇攘夷」思想の変化
 幕府養護のため成立したこの思想が変化を遂げるきっかけとなったのは安政五年(1858年)の日米修好通商条約調印。時の大老・井伊直弼が調印し、横浜他数カ所を開港した条約である。これにより外国との貿易が行われるようになったが、余りにも不平等なその内容に国勢は悪化の一途を辿った。しかもこの調印に先立ち天皇の勅許を得る必要があったのだが、天皇は最後まで調印を認めなかったのである。「国体を汚す」ことを畏れるのがその真意であったのだが、幕府としては調印を拒否して侵略の憂き目をみるよりは、と勅許を得ずに調印を断行したのである。民衆の立場にしてみれば、幕府が勝手に調印したために自分たちの生活が苦しくなった、のである。幕府を見捨てるのも当然であろう。そういう時代の流れの中で、幕府勢力に対して反感をもっていた外様大名や急進派の志士たちが、今度はその幕府を倒すために「尊皇攘夷」を唱えだしたのである。幕藩体制を維持するために造られた身分秩序の思想であったが、幕府への不満が増幅する中でその本来の目的から路線が外れ、身分秩序のみを主眼に置くようになった。民衆の生活を守るべき立場の幕府であるのにそれが出来ないのなら、その列から外してしまえ、「天皇を立て外国勢力を倒せ」という風に変わっていったのである。それはそのまま「天皇をないがしろにし、うち払うべき外国に開港を行った幕府を倒せ」ということにつながっていった。この思想はあっというまに民衆や下級武士の間に浸透していった。そしてまさにこれが一般的に浸透している「尊皇攘夷思想」なのである。
 つまり、「尊皇攘夷」思想は2種類あるのである。学識高い清河八郎であるので、水戸学の流れを汲む本来の「尊皇攘夷」の思想はもちろん、不平等条約締結後の「尊王攘夷」の意も十分理解していたはず。では、八郎の唱えた「尊王攘夷」はどちらであったのか?

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