04.22.09:43
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06.22.11:57
清河神社例大祭(直会の部)









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06.12.16:40
お蓮の梅植樹事業
≪160年越しの祝言 現代に蘇る夫婦愛≫
式典が終わり、拝殿を直会会場に準備している間に、参列者皆さんの立会いの下、「お蓮の梅植樹事業」が行われました。
お蓮は、天保11(1839)年、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれています。
家が貧しく、10歳のときに養女に出されていますが、17歳の時には遊郭に売られています。その年に客として上がった八郎と出会います。「虎尾の会」同志の安積五郎と共に鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いたときに、安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の場でお金をばら撒きます。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まりますが、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮でした。遊女・酌婦と言えば最も身分の低い女とされていましたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのです。お蓮の本名は高代と言いましたが、 「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が命名したのが「お蓮」でした。当然、庄内でも富豪であった生家の斎藤家では大騒ぎとなり、八郎は勘当同然でお蓮と生活をすることになります。
文久元(1861)年、八郎は町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、お蓮は連坐して投獄されてしまいます。最後まで八郎を信じ、八郎の為にと耐え抜いたのでしたが、翌年文久2(1862)年に数え24歳で亡くなっています。
この日移植された二本の苗木は、鶴岡市熊出(旧朝日村熊出)のお蓮生家に代々育って来た樹齢300年を超える梅の木から生まれた苗木で、NPO法人元気・まちネット代表の矢口氏が、神社の境内に植えて現代に二人の出会いを実現したらどうかとの提案を頂き、清河八郎顕彰会が準備し、実現させたものです。
記念植樹で挨拶する「お蓮」生家の管原善一(鶴岡市熊出)さんです。
「私の家に代々伝わって来た梅が、このように立派な式をして頂き、夫である八郎さんの傍に生き続けることに「お蓮」もきっと喜んでいると思います。どうか末永く育てていって貰いたいです。」と述べられました。

記念植樹をする向かって左から、NPO法人元気・まちネット代表矢口正武氏、清河八郎顕彰会会長正木尚文氏、お蓮生家菅原善一氏


家が貧しく、10歳のときに養女に出されていますが、17歳の時には遊郭に売られています。その年に客として上がった八郎と出会います。「虎尾の会」同志の安積五郎と共に鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いたときに、安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の場でお金をばら撒きます。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まりますが、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮でした。遊女・酌婦と言えば最も身分の低い女とされていましたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのです。お蓮の本名は高代と言いましたが、 「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が命名したのが「お蓮」でした。当然、庄内でも富豪であった生家の斎藤家では大騒ぎとなり、八郎は勘当同然でお蓮と生活をすることになります。
文久元(1861)年、八郎は町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、お蓮は連坐して投獄されてしまいます。最後まで八郎を信じ、八郎の為にと耐え抜いたのでしたが、翌年文久2(1862)年に数え24歳で亡くなっています。
この日移植された二本の苗木は、鶴岡市熊出(旧朝日村熊出)のお蓮生家に代々育って来た樹齢300年を超える梅の木から生まれた苗木で、NPO法人元気・まちネット代表の矢口氏が、神社の境内に植えて現代に二人の出会いを実現したらどうかとの提案を頂き、清河八郎顕彰会が準備し、実現させたものです。

「私の家に代々伝わって来た梅が、このように立派な式をして頂き、夫である八郎さんの傍に生き続けることに「お蓮」もきっと喜んでいると思います。どうか末永く育てていって貰いたいです。」と述べられました。




06.01.17:51
清河神社例大祭が執り行われました







朗詠する日本九重流詩吟学会庄内支部の皆さん。一枚目が太田悠風(ゆうふう)教師奥伝五段、二枚目が土門登洲(とうしゅう)範師総伝八段(立川教場長)、三枚目が相馬角洲(かくしゅう)範師総伝八段の皆さんです。



05.24.13:59
「清河八郎関係書簡集 五」を山形新聞で紹介頂きました。
05.21.14:09
「清河八郎関係書簡集 五」が発刊されました

本号は安政4(1857)年4月29日付、八郎28歳、父宛書簡から同6年秋までの2年4カ月までの45通を載せています。

安政4(1857)年10月江戸・八郎より父宛
【大意】
アメリカ船は昨年7月伊豆下田に来航、将軍家に謁見、国王の書状を差し出す爲、江戸城への登城を願い出て許された。
諸大名、国主方には不同意の人も多く、特に水戸老公等不同意だが結局幕府の執政に一任となった。
一行は江戸表に着き、外交官ハリス等は21日江戸城に登城し国王の書状を差し出した。江戸城では厚くもてなし、食事の献立は33品と聞いた。国王の書状の内容は不明だが無事終わる。
我が国の国情から見て、各国使節との交渉等の対応について、幕府においては混乱が生じ、苦慮することが予想される。また、外国との生活習慣の相違等も知らせ、やがて外国との戦争が生じ、国内騒乱となることを憂うる書簡である。



