06.12.16:40
お蓮の梅植樹事業
≪160年越しの祝言 現代に蘇る夫婦愛≫
式典が終わり、拝殿を直会会場に準備している間に、参列者皆さんの立会いの下、「お蓮の梅植樹事業」が行われました。
お蓮は、天保11(1839)年、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれています。
家が貧しく、10歳のときに養女に出されていますが、17歳の時には遊郭に売られています。その年に客として上がった八郎と出会います。「虎尾の会」同志の安積五郎と共に鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いたときに、安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の場でお金をばら撒きます。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まりますが、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮でした。遊女・酌婦と言えば最も身分の低い女とされていましたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのです。お蓮の本名は高代と言いましたが、 「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が命名したのが「お蓮」でした。当然、庄内でも富豪であった生家の斎藤家では大騒ぎとなり、八郎は勘当同然でお蓮と生活をすることになります。
文久元(1861)年、八郎は町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、お蓮は連坐して投獄されてしまいます。最後まで八郎を信じ、八郎の為にと耐え抜いたのでしたが、翌年文久2(1862)年に数え24歳で亡くなっています。
この日移植された二本の苗木は、鶴岡市熊出(旧朝日村熊出)のお蓮生家に代々育って来た樹齢300年を超える梅の木から生まれた苗木で、NPO法人元気・まちネット代表の矢口氏が、神社の境内に植えて現代に二人の出会いを実現したらどうかとの提案を頂き、清河八郎顕彰会が準備し、実現させたものです。
記念植樹で挨拶する「お蓮」生家の管原善一(鶴岡市熊出)さんです。
「私の家に代々伝わって来た梅が、このように立派な式をして頂き、夫である八郎さんの傍に生き続けることに「お蓮」もきっと喜んでいると思います。どうか末永く育てていって貰いたいです。」と述べられました。
記念植樹をする向かって左から、NPO法人元気・まちネット代表矢口正武氏、清河八郎顕彰会会長正木尚文氏、お蓮生家菅原善一氏
式典が終わり、拝殿を直会会場に準備している間に、参列者皆さんの立会いの下、「お蓮の梅植樹事業」が行われました。
お蓮は、天保11(1839)年、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれています。
家が貧しく、10歳のときに養女に出されていますが、17歳の時には遊郭に売られています。その年に客として上がった八郎と出会います。「虎尾の会」同志の安積五郎と共に鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いたときに、安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の場でお金をばら撒きます。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まりますが、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮でした。遊女・酌婦と言えば最も身分の低い女とされていましたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのです。お蓮の本名は高代と言いましたが、 「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が命名したのが「お蓮」でした。当然、庄内でも富豪であった生家の斎藤家では大騒ぎとなり、八郎は勘当同然でお蓮と生活をすることになります。
文久元(1861)年、八郎は町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、お蓮は連坐して投獄されてしまいます。最後まで八郎を信じ、八郎の為にと耐え抜いたのでしたが、翌年文久2(1862)年に数え24歳で亡くなっています。
この日移植された二本の苗木は、鶴岡市熊出(旧朝日村熊出)のお蓮生家に代々育って来た樹齢300年を超える梅の木から生まれた苗木で、NPO法人元気・まちネット代表の矢口氏が、神社の境内に植えて現代に二人の出会いを実現したらどうかとの提案を頂き、清河八郎顕彰会が準備し、実現させたものです。
記念植樹で挨拶する「お蓮」生家の管原善一(鶴岡市熊出)さんです。
「私の家に代々伝わって来た梅が、このように立派な式をして頂き、夫である八郎さんの傍に生き続けることに「お蓮」もきっと喜んでいると思います。どうか末永く育てていって貰いたいです。」と述べられました。
記念植樹をする向かって左から、NPO法人元気・まちネット代表矢口正武氏、清河八郎顕彰会会長正木尚文氏、お蓮生家菅原善一氏
参列者の皆さんと一緒に記念撮影です。
この後は例大祭直会になりますが、また後日といたします。
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