09.15.15:57
「新・歴の里清川」スライド公開です。
歴史の里清川を紹介するスライド、「歴史の里清川」の第二弾、「新・歴史の里清川」を公開しました。⇒https://www.youtube.com/watch?v=2Fa9TUlDIo4&t=47s 前作は、平成31年4月に竣工した庄内藩清川関所「川口番所」と「船見番所」が公開される前に作製したもので、清川に新設された広域観光の拠点施設が紹介されていませんでした。今回、エンディングのシーンに二つの施設を加え、新たにチャレンジする清川の姿を紹介しています。
スライドで紹介している歴史資産は全部で9箇所です。
最初に紹介している箇所の位置を「歴史の里マップ」を使って案内しています。
一番目は清河八郎記念館
清河八郎記念館は、八郎の没後百年記念事業の一つとして、昭和37年に建設されました・・・・・・。
二番目は清河神社
清河神社は明治41年正四位を贈られたのを機に、大正12年の清川戸主会において神社建立を決議し・・・・・・・・。
三番目は北楯大堰
北楯大堰は慶長6年西暦1601年に狩川城主となった北館大学が・・・・・・・・。
四番目は金華山歓喜寺
金華山歓喜寺は曹洞宗のお寺で、天正7年、西暦1579年に・・・・。
五番目は御諸皇子神社
御諸皇子神社参道の入り口に一対の仁王像があります。一般的に神社の守り神は狛犬で、お寺の守り神が仁王像ですが・・・・・・。
六番目は清河八郎生家跡
八郎の生家齋藤家は古くから清川に住んでおり、多くの田畑や山林を持ち、また酒造業を営む裕福な家でした・・・・・・。
七番目は松尾芭蕉上陸の地と清川関所跡
庄内、最上の境であり、最上川舟運の要所であった清川には、庄内藩の関所が設けられていました・・・・・・・・・。
八番目は御殿林
時は慶応4年、西暦1868年4月24日、鳥羽伏見の戦いが東北の地にも移り、戊辰戦争清川口の戦いがあった場所なのです・・・・・。
九番目は戊辰戦争官軍墓碑
官軍が退いた後に残された長州藩士二名の戦死者を、清川の人たちは敵と言えども暖かく弔い・・・・・・。
そして最後に平成31年4月に竣工した荘内藩清川関所「川口番所」と「船見番所」を紹介しています。清川歴史公園のHPはこちら⇒https://kiyokawa-historicalpark.navishonai.jp/
18分17秒の時間ですが、数多い歴史資産を要約しながら紹介しておりますので最後までご覧ください。
スライドで紹介している歴史資産は全部で9箇所です。
最初に紹介している箇所の位置を「歴史の里マップ」を使って案内しています。
一番目は清河八郎記念館
清河八郎記念館は、八郎の没後百年記念事業の一つとして、昭和37年に建設されました・・・・・・。
二番目は清河神社
清河神社は明治41年正四位を贈られたのを機に、大正12年の清川戸主会において神社建立を決議し・・・・・・・・。
三番目は北楯大堰
北楯大堰は慶長6年西暦1601年に狩川城主となった北館大学が・・・・・・・・。
四番目は金華山歓喜寺
金華山歓喜寺は曹洞宗のお寺で、天正7年、西暦1579年に・・・・。
五番目は御諸皇子神社
御諸皇子神社参道の入り口に一対の仁王像があります。一般的に神社の守り神は狛犬で、お寺の守り神が仁王像ですが・・・・・・。
六番目は清河八郎生家跡
八郎の生家齋藤家は古くから清川に住んでおり、多くの田畑や山林を持ち、また酒造業を営む裕福な家でした・・・・・・。
七番目は松尾芭蕉上陸の地と清川関所跡
庄内、最上の境であり、最上川舟運の要所であった清川には、庄内藩の関所が設けられていました・・・・・・・・・。
八番目は御殿林
時は慶応4年、西暦1868年4月24日、鳥羽伏見の戦いが東北の地にも移り、戊辰戦争清川口の戦いがあった場所なのです・・・・・。
九番目は戊辰戦争官軍墓碑
官軍が退いた後に残された長州藩士二名の戦死者を、清川の人たちは敵と言えども暖かく弔い・・・・・・。
そして最後に平成31年4月に竣工した荘内藩清川関所「川口番所」と「船見番所」を紹介しています。清川歴史公園のHPはこちら⇒https://kiyokawa-historicalpark.navishonai.jp/
18分17秒の時間ですが、数多い歴史資産を要約しながら紹介しておりますので最後までご覧ください。
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