07.23.16:52
「西遊草」特別講座が開催されました
■ 7月12日(木)に清川公民館の主催する「清川成人大学講座」が、「西遊草」特別展開催中の清河八郎記念館で開催されました。当日はあいにくの天候でしたが、町内外から9名の参加者があり、広田館長が語る、八郎と母の伊勢詣での行程を追いながら京都・富士山・江戸での滞在の様子を聞き、清河八郎という人物を明治維新の火付け役としてだけではなく、また別の観点から捉えることができる貴重な講座となりました。
▼ 廣田館長から、『西遊草』について解説していただきました。
さて、ここで問題です!
清河八郎の幼名は「齋藤元司」ですが、なぜ「清河八郎」という名前に改名したのでしょうか?「清河」という苗字は察しがつきますが、では「八郎」は一体どこから?
答えは、ぜひ記念館に来て聞いて下さいね 。
『西遊草』の特別展は9月8日(日)まで開催しております。
出前講座致します。清河八郎記念館にご連絡ください。
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05.27.14:25
回天の道と清川歴史の旅を実施しました
5月26日(日)、爽やかに晴れ渡った空の下、「清河八郎顕彰会」が主催する「回天の道と清川歴史の旅」を実施しました。内容は盛り沢山で、八郎が出奔する時に何故人知れぬ山道を選んだのかについて、 清河八郎記念館館長からの話を聞いた後、八郎の郷里である山形県庄内町清川に伝わる、源義経や松尾芭蕉、戊辰の役清川口の戦いなどについて歩きながら学び、その後実際に八郎が辿った山道を歩く、里山ウォーキングを楽しみました。
▼ 清河八郎記念館前で開会式です。参加者は23名庄内町以外からもお出で頂きました。
▼ 清川八郎記念館長からは、幼名「元司」から何故八郎と改名したかについてと、何故人知れぬ山道を使って出奔したかについての話を聞きました。
▼ 金華山 歓喜寺に有る八郎の生家、齋藤治兵衛家の墓地を訪ね、清河八郎、妻お蓮の墓碑をお参りしました。
▼ 日本疏水百選に選定されている「北楯大堰」を渡り、御諸皇子神社の隋神門前で「阿吽形仁王立像」の説明を受けます。
▼ 1800年に建立された権現造り社殿「御諸皇子」神社に伝わる、源義経が平泉に逃れる際の安全祈願やその昔は羽黒山登山口として栄えた事をお聞きしました。
■ 長くなるので、これ以後の日程は第二部で後日お知らせします。
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11.09.00:14
新撰組・近藤 勇、八郎暗殺未遂!
文久3年(1863年)2月23日、浪士組一向が、京都に到着し壬生村へ入り、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集めた。
「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説。突然の話に浪士たちは困惑した。しかし八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され、浪士たちは血判するのだった。翌日、八郎はこの血判による上表文を御所に提出する。
江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、①島津久光を引き渡す。②賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の建白書を上奏。そして八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出した。
八郎は、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と言うと、芹沢はもってのほかという顔をして、「これは清河氏のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我等同志13名だけは京に残り申す」とキッパリと断った。八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。
芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。(のちに壬生浪士組⇒新撰組となる)そして、ほどなく浪士組頭・板倉勝静より、芹沢らに八郎暗殺の内命が伝えられた。。
ある日、八郎が山岡鉄太郎と2人だけで土佐藩邸へ出かけることを聞きつけた芹沢らは、二手に分かれ、芹沢は新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の6名とともに四条堀川に、近藤は土方・沖田・永倉・井上・原田の5名を同行して仏光寺堀川で八郎の帰りを待ち伏せた。
夜も更け、人通りも少なくなった頃、八郎と山岡は四条堀川を通りかかった。
これを見た芹沢は、八郎の背後から抜き打ちにしようと近寄ったが、山岡の懐中に御朱印があることに気づき、御朱印に剣をかざすことは、将軍家に敵対するのと同じ意味を持つと当時の武士は考えていたため、芹沢はついに剣を抜かずに終わった。
近藤は、文久3(1863)年5月、郷里に宛てた書簡で、八郎暗殺の報告を受けて、本来は京で清河八郎ら6人に誅戮を加える予定であった旨を伝えている。
03.30.13:44
清河八郎記念館開館中!
幕末の風雲児・清河八郎の遺品・遺作などたくさん収蔵しております。
是非おいで下さい。
団体等で事前に御予約いただければ、その都度開館いたしますので下記までお問合せ下さい。
●問合せ : 清河八郎記念館 TEL0234-57-2104
12.10.14:41
八郎の父・雷山(秀寿(ひでとし))
弘化元年(1844年)、35歳で斎藤家の家督を相続し、代々の慣わしにより「治兵衛」を襲名した。号ははじめ柳眉とし、後に雷山と改めた。
20歳のとき鶴岡荒町の富商三井屋吉の三女であった亀代(当時14歳)と結婚、天保元年(1830年)10月10日に八郎が長子として誕生する。
雷山は生真面目な性格で昼間は家業に勤しみつつ、文化人でもあった。夜は燈火の下で書を読み独学に励んだという。
書は特に歴史・文学の類を好み、中でも唐詩選を愛し啓蒙していたため全巻暗誦し、八郎にも学ばせている。また、古法帖を手本として書道を嗜み、書画刀剣の趣味も深かった。八郎の秀才肌は父の影響とも言えるだろう。
俳諧は庄内飽海郡松山の村田柳支について学んだ。柳支の没後、「見風舎句集」一巻を編み、師恩に報じた。
斎藤家では客を喜び、雷山が風雅を以って親交し、文通した人物は130人にも及んだと言われる。その書簡を編して「到来集」四巻を執筆している。雅友の中で最も敬服したと言われているのが藤本鉄石だった。
藤本は、遊学の折、弘化3年(1846年)に斎藤家に立ち寄っている。八郎の祖父・昌義はえらく藤本を気に入り、客人として藤本の面倒見ている。藤本も斎藤家を気に入り、1ヶ月ほど清川に滞在している。八郎(元司)17歳のときで、八郎自身、藤本に強い興味を抱き、藤本との出会いが少年八郎に多大な影響を与え、この後、八郎は立志のもと江戸への遊学を願うようになる。後の清河八郎たる人物を開眼させるきっかけを作ったのが藤本であったのかもしれない。
また、雷山は旅行を好み、庄内の三名湯といわれる田川・湯野浜・温海の温泉、新庄の瀬見温泉などにはよく出かけた。また登山も好み、羽黒山には毎年二度は必ず登ったと言われる。