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12.10.14:35

斎藤家と酒造業

●斎藤家のルーツ

 斎藤家のはじまりは、清和源氏の分かれである越智氏が京都から下ってきて斎藤を名乗ったという。つまり平安末期から鎌倉時代初期にかけての旧家で、南北朝時代には斎藤外記という武将がかなりの戦功をあげたらしい。伝説では、文治2年(1186年)、源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家にのがれる途中、清川に寄っており、その時に斎藤家が世話し、義経から鬼王丸という刀を与えられたという。
 源義経が清川に立ち寄ったことは有名で、御諸皇子神社で一夜を明かし、清川から最上川を船で上ったと「義経記」に出てくる。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。

 八郎の祖母は宮曽根村(余目地区)佐藤市郎左右衛門の出で、義経に忠誠をつくした佐藤継信の子孫だという。庄内有数の名門である。

 斎藤家がこの地で酒造業を始めたのは江戸初期、酒井家が14万石庄内藩主として封ぜられた頃からのことで、醸造石数は500石前後、一升瓶にしておよそ5万本に当たる。
(斎藤家の田地は、清川村内には30石、立谷沢村に100石、狩川村とその付近に400石あったという。)当主は代々治兵衛と称し、小売専門だった。
 文化・文政の頃から嘉永・安政にかけて、最上川回船の繁栄にともない、清川はまるで市のような賑わいをみせ、斎藤家の門前は酒を求める者が明け方から暮まで群がり店の者が休む間もない程だったという。
 また、灘地方の酒造家は原料米の仕入れが経費の65%であるのに対し、斎藤家では自家保存米を使うために生産経費が安く上がり、小売専門なので容器代はかからず、運送賃もかからない。そのため斎藤家の利益は計り知れないと言われ、文字通り大金持ちだった。

 当時は酒が現在よりはるかに高級品だったので、酒一升をためしに3千円と換算してみよう。それが、5万本だから、年収1億5千万円になる。
 江戸時代、江戸で生活をする人々は月に1両あれば1家族がなんとかやりくりできていた。一両を5万円と考えると、一般庶民の生活費は年間60万円程度である。斎藤家がいかに大金持ちだったかわかる。
 もっとも斎藤家の収入は酒造だけではなく、立谷沢川から採れる砂金を取り扱っていたのである。農民が川で砂金を採ってくると斎藤家が買い取り、それを酒田の豪商本間家にまとめて持っていく。はたしてこれがどれほどの金額になったかはわからないが、斎藤家が清川でどれほどの有力者であったかは想像がつくだろう。

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12.06.18:13

清河八郎と坂本龍馬

先日、清河八郎記念館の斎藤館長より、貴重なお話を聞ける機会を頂きました。

 最終回を迎えた、今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」
 題名どおり、主人公は日本人なら誰でも知っている、坂本龍馬です^^
 毎週楽しみに見ておりましたが、楽しみが減ってしまい、少し残念です。

 福山雅治さん演じる龍馬は、あまりにもかっこよすぎて、
 脚本や撮影手法等、賛否両論があったようですが、
 私としては、面白く見ることが出来ました^^

 この坂本竜馬は、同じ北辰一刀流の達人です。同門という間柄であり、八郎が先輩に当たるわけですが、双方面識があり、竜馬は『虎尾の会』にもその名を連ねています。
 八郎は嘉永4年(1851年)、22歳の時に幕末の剣聖と呼ばれた千葉周作道場に入門。
 竜馬は嘉永6年(1853年)、19歳の時に千葉定吉(周作の弟)道場に入門。
師は違いましたが、同じ北辰一刀流、その剣技は2人とも一流であったと言われています。
 
 八郎が『北辰一刀流中目録免許』を受けた年ということなので、安政5年(1858年)のことになるでしょうか、八郎29歳、竜馬24歳の時のことです。同年、竜馬は『北辰一刀流長刀兵法目録』一巻を伝授されています。
 この年、親善なのか稽古なのかは定かではありませんが、八郎と竜馬の試合の記録が残っているのだそうです。
 結果、八郎の圧勝。年齢と経験の差はあるものの、一片の隙も無い八郎に圧され、竜馬は八郎から1本も取ることが出来なかったそうです。竜馬は、この時の八郎の姿を、『巨岩』『巨虎』と比喩し敬意を払っています。2人とも当時としては大柄な人物でしたが、それでも、竜馬は八郎の剣威を絶賛し、八郎もまた、その屈託のない竜馬の人柄に敬意を表し、倒れた竜馬に手を差し伸べたと言うことです。

 2人の関係は、当時の記録が克明に残っていないため不明な部分は多々ありますが、やり方は違えども、『日本の将来』のために国事に奔走したという点ではシンクロする部分があります。新しい時代を見ずに2人とも暗殺されてしまいますが、
八郎が『明治維新の魁』となり、竜馬は『明治維新の創造主』的存在だったと言えます。
 2人の国事奔走は、激動の時代の波に儚く消えていった多くの同朋たちの志を背負っていたからこそであり、『大和魂』を今なお、私たちに教えてくれているような気がします。

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