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11.09.16:03

清河八郎関連書籍がぞくぞく発売!!

① 「庄内町史資料 第一号 清河八郎関係書簡 一」 
 明治維新の魁として動乱の幕末を駆け抜けた勤皇の志士・清河八郎。没後150年となる今年、八郎が記した書簡の一部をまとめ、町史資料として発刊しました。
 尊王攘夷の決意や浪士組の編成といった、幕末の情勢を記した書簡をはじめ、母や妹に宛てた平仮名で書かれた書簡、骨董の売買に関する書簡など、これまで知られていなかった八郎の多彩な人物像が垣間見える内容となっています。また、全ページに写真を配し、原文と読み下し文を付けました。
 庄内町役場の社会教育課(立川庁舎2階)、町立図書館、亀ノ尾の里資料館、清河八郎記念館で販売しています。1部1,000円です。皆様ぜひご覧ください。
 
■問合せ 社会教育課社会教育係 ☎ 0234-56-3320

②「新釈 清河八郎伝」
  平成9年に発行された「清河八郎グラフィティ」が改定した「新釈 清河八郎伝」が発売されました。
  【目次】
   ◎清河八郎とその時代
   ◎清河八郎伝
   ◎その後の「虎尾の会」同志
   ◎清河八郎とは、どんな人だったのか
  清河八郎記念館で販売中です。こちらも1部1,000円。皆様ぜひご覧ください。 

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11.09.15:47

東京・日野市との交流

 庄内と日野市との交流が始まっています。
 日野市は新撰組副長の土方歳三や六番隊隊長井上源三郎が生まれ、近藤勇や沖田総司などが剣術の腕を磨いた道場があった場所で、新撰組ゆかりの建物や資料館などが多い町でもあります。
 そんな日野市と、新撰組の”生みの親”であるという清河八郎の生誕の地、庄内町清川地区との交流が始まりました。
 その第一弾として、日野市立新撰組のふるさと歴史館では、「新撰組―江戸から庄内へ、剣客集団の軌跡」が、また清河八郎記念館では、「新撰組の”生みの親”清河八郎の軌跡」展が開催されました。
 来年度、清河八郎没後、浪士組上洛150年となり、清川八郎記念館は「ふるさと歴史館」と共催で、新撰組と八郎をテーマにした特別展を計画中です。
 ぜひお楽しみください♪

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04.27.08:35

平成24年度清河八郎記念館特別展

平成24年度 清河八郎記念館特別展 ~新撰組の〝生みの親〟清河八郎の軌跡~
没後150年、新撰組の生みの親として清河八郎が書き残した史料の展示と行動をパネルで紹介。
●展示期間/4月14日(土)~ 11月30日(金)
●開館時間/午前9時~午後5時
●休館日/毎週月曜日(祝日の場合その翌日)
■問合せ/清河八郎記念館☎57-2104

ぜひ皆さんお越しください!!

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02.06.11:20

清河八郎没後150年顕彰記念 劇団響特別講演「お蓮」

  妻「お蓮」の純愛と憂国の仲間たちとの幕末青春グラフィティ
~明治維新の魁・清河八郎の妻「お蓮」の純愛物語~


【日時】

2012年3月10(土) 開場18:00 公演時間18:30~21:30
2012年3月11(日) 開場13:00 公演時間13:30~16:30

【チケット】 全席自由 一般1,000円・高校生以下500円

【作】柘植 徳井 【演出】佐藤 正一(表現舎刻一刻)
【チケット発売】 1月15日(日)

●お問合せは・・・
 0234-45-1433 庄内町文化創造館「響ホール」まで


 

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11.09.00:14

新撰組・近藤 勇、八郎暗殺未遂!

 八郎の建言によって集まった浪士組。
 文久3年(1863年)2月23日、浪士組一向が、京都に到着し壬生村へ入り、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集めた。
「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説。突然の話に浪士たちは困惑した。しかし八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され、浪士たちは血判するのだった。翌日、八郎はこの血判による上表文を御所に提出する。
 
 江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、①島津久光を引き渡す。②賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
 これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の建白書を上奏。そして八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出した。
 八郎は、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と言うと、芹沢はもってのほかという顔をして、「これは清河氏のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我等同志13名だけは京に残り申す」とキッパリと断った。八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。
 芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。(のちに壬生浪士組⇒新撰組となる)そして、ほどなく浪士組頭・板倉勝静より、芹沢らに八郎暗殺の内命が伝えられた。。

 ある日、八郎が山岡鉄太郎と2人だけで土佐藩邸へ出かけることを聞きつけた芹沢らは、二手に分かれ、芹沢は新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の6名とともに四条堀川に、近藤は土方・沖田・永倉・井上・原田の5名を同行して仏光寺堀川で八郎の帰りを待ち伏せた。
 夜も更け、人通りも少なくなった頃、八郎と山岡は四条堀川を通りかかった。
 これを見た芹沢は、八郎の背後から抜き打ちにしようと近寄ったが、山岡の懐中に御朱印があることに気づき、御朱印に剣をかざすことは、将軍家に敵対するのと同じ意味を持つと当時の武士は考えていたため、芹沢はついに剣を抜かずに終わった。

 近藤は、文久3(1863)年5月、郷里に宛てた書簡で、八郎暗殺の報告を受けて、本来は京で清河八郎ら6人に誅戮を加える予定であった旨を伝えている。

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