10.22.15:26
髙橋泥舟「山形行日記」解読記念シンポジウム第二部
▼登壇者:【東洋大学文学部教授岩下哲典氏】、【カナダ出身、フリー翻訳家イアンアーシー氏】、【鶴岡市郷土資料館館長補佐今野章氏】、コーディネーター【前庄内町文化財保護審議会会長・清河八郎生家齋藤家菩提寺「金華山歓喜寺」住職柳川泰善氏】
▼ 座談会ステージ全景
【柳川泰善氏】
最初にお話ししたいのは、この山形行き日記の解読に関しての切っ掛けであります。
平成16年に、私が 清河八郎さんのお墓を掃除していた時に、たまたま河北町の議長さんと泥舟研究会の大場勇人さんともう一方三人がお墓に入って来ました。それはどんな理由かと申しますと、平成16年町制施行50周年記念事業として泥舟展をやりたい。ついては泥舟さんの山形行き日記があって、しかもその山形行き日記と、 随行しての記録を書かれた早坂徳之助さんの「庄内紀行高橋泥舟に随従して」というものなど、資料をたくさん持ってこられました。
私も父から、うちには高橋泥舟の書があると聞いていて、一部その関係の資料があったんで、全く見ていない訳では無かったんですが、何しろ難しくて困っていまして、それを読めないままず~っと温めておいたのですが、 一昨年、岩下先生が「旅する思想家清河八郎」と言う、そう言った内容のお話でお出でになった時に、実はこのことについて、平成16年に研究会の大場勇人さんが見えて、庄内のことは庄内で少し調査研究し、解読して欲しいと言うことがあったので、そのことをお伝えして岩下先生に解読をお願いしたのが始まりです。
▼ 柳川泰善氏
今回、本当に岩下先生にお願いして、お三方が完全に解読され、翻刻し、読み下し文に完成したということは、私は、年来の念願が叶ったと言うことを痛切に感じており、 大変有難く思っております。まず最初に御礼申し上げたいと思います。
最初に清川に来るのが9月26日、この冊子で行きますと159ページ、お持ちの方ちょっと見て頂きたいと思います。 26日の日記の最後の方、ページの下段の方の最後から4行目、「黄昏清川の齋藤治兵衛方へ着す。」これがあります。齋藤治兵衛のうちは、清河八郎の生まれた実家のことであります。
その時には、清河八郎の母「亀代」も73歳、喜寿を超えてかくしゃくとしておられまして、大歓迎をして久しぶりにお会いしたので懐かしいと回顧する記事も載っておりました。
それは西遊草で、京都から東海道を下って江戸に来た時に、江戸に20日くらい滞在するんですが、その時に多分泥舟さんと清河八郎さんの母「亀代」さんはお会いしているのではないかと思います。こんなことがあって、非常に歓迎している記事が、随行者であった早坂徳之助の庄内紀行の中に書かれております。
山形行き日記の中で清川を立つと鶴岡に行っております。高橋泥舟の日記としては鶴岡が一番多く書かれております。私は、明治22年頃の鶴岡はどういう状況にあったか知るところではありませんので、今日は、郷土資料館の今野さんにその時代の鶴岡の状況と、それから高橋泥舟と鶴岡の人方との交流について、まずお話し頂ければ有難い。こんな風に思います。今野さんよろしくお願いします。
▼今野章氏
明治22年段階の庄内の状況というものをざっと説明いたしますと、2月11日に大日本帝国憲法が発布されるっていうことで、これに合わせて西郷隆盛の賊名が解かれることになります。それに対して庄内士族たちは南洲翁遺訓の編纂事業をこの年から始めて、翌年から販売に歩く訳なんですけども、まあそういった関係で南洲翁遺訓の編纂を始めたっていうのが一つ大きいことだと思います。それから4月に市制と町村制が施行されるって事があります。6月6日には、鶴岡、酒田で町会議員選挙が始まったっていうことがありまして、憲法が発布されて、高揚した気持ちの中にいたのが、明治22年段階っていう風なことになると思います。
実際に泥舟を訪ねてきた人々っていうのが、一番目として僧侶の方が多いですね。
二番目に士族についてですが、9月29日には幕末、庄内藩の江戸家老だった、松平権十郎に「伝言頼み置く」という文言が日記にあります。権十郎とはもしかしたら泥舟と面識があったのかも知れません。
10月12日には、江戸の留守居役を務めていた黒川と言う人物が訪ねて来ます。黒川は、清河八郎が庄内藩邸に建白書を持って来たときの実際取り扱った人物なんですけども、もしかしたら清河と面識があったのかなと思うんですけども、それと関連して泥舟を訪ねてきたのかな っていうのがこの文章から読み取れます。
あと、西田川郡役所の郡長が訪ねてきたり、役人が訪ねてきたりしております。
日記で鶴岡で面白かったのは、いろいろな料亭の名前が出てたことが大変面白く拝見しました。明治26年段階だと鶴岡町では、飲食店が81軒、これ明治の当館に残っている税金関係の資料から見て取れるんですけども、81軒飲食店があってそのうち34軒が料亭になっております。泥舟が泊まっていたのが「鶴寿亭」というところで、現在の大宝館の前あたりにあった旅館兼料理店だと思うんですけども、そういった料亭が賑やかだった所の中に泥舟が泊まっていた、そう言った面があるのが、ざっとこの日記を見た鶴岡滞在中のことになります。まずは以上。
続いて、アーシーさんから、皆さん、この難解な泥舟さんの書かれた日記をカナダ出身のアーシーさんが解読されたっていうことに対して、崇敬の念だけでなくて、何とも考えがつかないような才能をお持ちなのかなと、こんなふうに思っておりますが、皆さんいかがですか、(会場から拍手多数)ありがとうございます。この難解な解読をされたお話をいただきましたが、裏話を少しお話ししていただければありがたい 。
私は才能など全くなくて、あの~単なる物好きです。それでこういう昔の資料に、昔からこういうものに興味があるんですけれども、大学で古代ギリシャ語や、ラテン語を勉強するぐらいだからとにかく古いもの、歴史的なもの、そういうようなものに血が騒ぐという性格です。
解読し始めたのはちょうどコロナ禍の中だったので、3人でオンライン会議を開いてそれで少しずつ解読していきました。
今日はいらっしゃらないんですけれども、もう一人の参加者、服部さんというお方ですが、もう80歳を超えてるにもかかわらず、もの凄く良く読めるし頭の切れるお方ですけれども、実はこの入力作業を担当してくださったのはその服部さんという方だったんです。
どういうような過程でやったかというと、まず3人でオンラインで解読をして、その服部さんはそれを全部入力してくれるという形になっていて、それで コロナ禍が少し収まってから、それから服部さんと私の2人が実際にあって、その解読文を確認するという形でした。
どこであっていたかと言うと、大体が喫茶店でこういう古い文書を確認していたんですが、私はこう言う顔ですので、二人で会っていると、周りの人はこれから英会話のレッスンでも始まるのではと思っていたら、突然、「なんとか候、かんとか候」が始まって驚いたのではないでしょうか。
【岩下哲典氏】
▼岩下哲典氏
昨日、歓喜寺さんで、鉄舟さんの字を見せていただきましたけれども素晴らしい。その~筆使いも力強くて圧倒されるのがこれ鉄舟さんだと思います。
▼泥舟の字体は梅の古木と表現する岩下哲典氏
ただ泥舟さんのいわゆる草書体の字はもうこんな感じの梅の古木なんですが、楷書を是非ご覧ください。楷書はですね、本当に惚れ惚れするくらい良い字を書きます。清河八郎のお墓の字は泥舟さん(柳川氏:両親も)両親もですね。 その字はもう本当に楷書で綺麗な楷書でですね 是非これはあの小学校のお習字のお手本にしていただきたいくらいのあの字だと思います。
▼柳川泰善氏
「老梅枝」と言う言葉がある様ですが、老梅の枝というそういう言葉があります。それに値する、そんな風に思います。アーシーさん血の騒ぐお話をしていただいてありがとうございました。
実は私が先代住職から聞いてる話では泥舟さんが庄内に来たっていうのは目的が二つあるんだと、一つは先程来お話あったように清河八郎さんのお墓にお参りに来るのが一つの目的だった。
それからもう一つは、善宝寺にも二泊か三泊くらい泊まっているんですが、当時、曹洞宗の本山であった能登にある總持寺の住職をされた奕堂禅師(えきどうぜんじ)が、秋田の方に用がありその帰りに体調を壊し、善宝寺で亡くなっています。泥舟さんと奕堂禅師との関係は、河北町谷地の長谷寺の仁藤巨寛(にとうきょかん)さんが奕堂禅師の弟子にあたると、そう言うご縁があったということなんです。
そろそろ時間なんでしょうが、最後に今野さん、10月24日に常念寺の住職さんが髙橋泥舟さんとの面会の時のお話をできればと思っておりましたが。
▼今野章氏
【柳川泰善氏】
まだまだ尽きないんですけども、限られた時間で今日お帰りになると言うことであります。岩下先生何か。
この方が、髙橋泥舟が山形の方に行っても毎日位高橋泥舟さんに会っているんですが、中身は分かりませんが運動展開中に、助言を頂いていたのではないかと言うことが想像されます。
どうぞこれから皆さんこの山形行き日記を開いて、これからやっと研究が始まったと、あるいはそういう資料であるということを思っていただいて、皆様方からも色々勉強していただければありがたいと、こんなふうに思っております。
以上でシンポジウム一部と二部の全日程の終了となりました。
この後、質問の時間を設けたところ、鶴岡市立大山小学校同窓会長さんから次のような御礼の言葉がありました。「大山小学校の古い校舎に横幅約5尺くらいの扁額があります。何故ここに泥舟さんの額があるかと言うことなんですが、隣の西郷小学校には先ほどお話ありましたように、西郷小学校という書がありまして、それを木に彫ってあります。それで確か私も泥舟さんが、清河八郎先生の墓参りに来て、そしてこちらの方に寄ったとお聞きしておりますけど、今日、先生方のお話を聞きまして本当に確信しました。ありがとうございました。以上です。」こんな感想を述べて頂きました。
髙橋泥舟は清河八郎が浪士組を結成した時の取締役となり、八郎の生き方に共感した人物であることがシンポジウムを通し再確認することが出来ました。
現在の清川にも髙橋泥舟来訪の地であることを記し、髙橋泥舟山形紀行の足跡として、歴史の一ページを蘇らせることが必要ではないだろうか。と独り秘かに思ったシンポジウムでありました。
徳田氏は、文中で、清河八郎が長崎行の心構えとして「各土地の経世風土と人情世態とを明らかにし、読書に拠る見識を以って、これを考慮し、その成果を経世済民に資する。」と言う目的意識を以って旅行すると書いており、長崎と言う土地が備える国際性、高名な文人たちとの情報収集、軍事的な観察など多くのことを目的として挙げています。
原文は漢文で、管原昭治氏(庄内町清河八郎関係調査員)が翻刻し、徳田先生が読み下し文と現代語訳文を掲載しています。
A4判、全198頁になっています。
販売定価は:1,400円(消費税込み)
+送料+振込手数料(但し振り込みの場合に限る)
購入希望の方は、次の場所で直接お買い求めできます。また郵送希望の方は、郵便番号、住所、氏名、電話番号をお知らせ願います。メールの場合はファイル添付はご遠慮頂き、直接本文に必要事項を書き込んでください。
①庄内町教育委員会社会教育課
電話0234-43-0194
FAX0234-42-0811
e-mail:syakaikyoiku@town.shonai.yamagata.jp
電話0234-57-2104
e-mail:spcp4yb9@pearl.ocn.ne.jp③清川歴史公園 荘内藩清川関所
④庄内町立図書館
電話:0234-43-3039
FAX:0234-43-4762
e-mail:tosho@town.shonai.yamagata.jp※ 清河八郎の九州紀行文「西遊記事」、それに幕末三舟の一人高橋泥舟の「山形行旅日記」共、日本で最初に翻刻し、分かり易い読み下し文を掲載した貴重な資料集です。
08.25.12:58
「赤心報国回天倡始」の尊皇攘夷
今年度は、故郷清川の父母に送った手紙を紐解き、八郎自らが記した生の心情を紹介しながら真の人物像に迫る特別企画展です。
中でも、八郎が幕府の陰謀により「無礼切りの殺人犯」に仕立てられながらも、尊皇攘夷の決起を促す九州遊説に奔走する際、懐中にしのばせた軍旗、「赤心報国回天倡始(国を想う純真な心で、政の大転換を成し遂げる先鋒にならん)」の意。(長さ2.2m幅36cm)の実物は必見です。ご来館の上本物の迫力を是非肌で感じてください。
07.28.18:26
佐高信特別公演
▼ 当日聴講者へ配布した講演会次第です。
この講演会は、月山を取り巻く5市町村(庄内町、鶴岡市、戸沢村、大蔵村、西川町)が構成メンバーになっている、月山フォーラムが所管する「月山わくわく活性化事業」の採択を受けて開催したものです。
事前の申し込み人数は283人、当日会場の受付窓口で記帳頂いた方が45人、合計で328人になっています。それに来賓の皆さん、スタッフの皆さん、合わせて約350人の方に聴講頂きました。
▼ 講演会が始まる前に庄内町が作成した「明治維新に火をつけた男」のDVDが上映されました。
このDVDは清河八郎について分かり易く解説しております。是非ご覧ください。(上映時間11分47秒)
「明治維新に火をつけた男」YouTube
▼ 講演会の総合司会は、庄内町大河ドラマ誘致協議会事務局長・庄内町社会教育課長佐藤直樹が務めました。
▼ 最初に講演会実行委員会委員長、公益財団法人清河八郎記念館理事長田沢伸一の挨拶です。
■ 挨拶概要
清河八郎は1830年に生まれ、1863年に暗殺されている。僅か34歳の人生だった。特に活動家として目覚めたのが1860年の桜田門外の変だと言われ、それから3年の活動で、明治維新に向けた大きな運動の立役者として今でも色んな説が出ています。
また清河八郎記念館には、八郎が書いた手紙や日記。更には幕末の志士との連絡時に出した手紙とか、まだ半分以上が解読されていない。今、大学の先生お二人や地元の研究者の方にお願いして解読に努めている。
博物館法の改正があり、博物館は単に展示、公開するだけでなく、地元の観光振興にも寄与することが義務付けられた。その意味で、そうした資料を通してできれば大河ドラマ誘致の環境醸成にも繋げていきたい。
講演依頼をした際に、一発でOKしてくださった佐高先生に感謝し、今日は佐高節をお聞きしながら清河八郎の話に期待したい。
▼ 次に講師紹介を清川地区振興協議会事務局長小倉慶久が行いました。
■ 紹介概要
先生は1945年酒田市に生まれ、酒田東高等学校、慶応義塾大学法学部法律学科を卒業され、卒業後、庄内農業高校の社会科の先生、その他庄内地区の高校で教鞭をとっております。東京に出て経済紙の編集長になり、1982年に評論家として独立しておられます。現在は評論活動と併せて、東北公益文科大学の客員教授を努められ活躍されております。
併せて今回の参加申し込みの時は、庄内農業高校の卒業生の方が、恩師の講演だから是非参加したいと言う声が多く寄せられていたことを報告しておきます。
▼佐高信氏講演
演題「清河八郎の真実に迫る!明治維新と清河八郎」
講演内容の概略の概略を記していきますが、最初に聴講された皆さんへ当日資料として配布した、佐高先生直筆によるレジュメをご覧ください。
講演の構成内容を示したもので、次のⅠからⅤまでに大別されていました。
Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
Ⅲ 「明治維新とは」?・王政復古
Ⅳ 「不耕貧食の徒(ふこうどんじきのと)」(安藤昌益)
年貢半減令と相楽総三
Ⅴ 清河八郎の可能性
大川周明、石原莞爾と比較して
アンケートでも「レジュメを示して頂きありがとうございました。」と述べられた方もおりました。
それでは、講演内容についてお知らせします。(講演時間約70分)
■ 前段
講演の依頼があった時に、清河八郎のことを凄く良く知っっているから引き受けたのではない。むしろ皆さんの中によく知っている人が居ると思う。只、清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言うことは、話せるるかもしれないと思い引き受けた。
今日は庄内農高の教え子も来ているということだが、率直に言って故郷で喋ると言うのは容易でないものがる。(会場:パラパラと拍手)‥‥今の拍手はどういう意味かよく分からないですが、(会場:あちこちで笑い)‥‥藤沢周平さんが故郷は辛い土地でもあると言っている。それは、若さに紛れて人を傷つけた記憶が蘇るからだと。故郷は辛い土地、自分も80歳を目前にしてちょっとそんな感じを強くしている。
Ⅰ 西郷隆盛と清河八郎
清河八郎を明治維新の中でどういう風に位置づけたらいいのかと言う時に、私は西郷隆盛と比較したらある種浮かび上がると考えた。
西郷隆盛と清河八郎は同時代を生きた人で、清河八郎は西郷隆盛の3歳年下であった。
でも、西郷隆盛を知らない人はいないが、清河八郎を知らない人はいると思う。それは何故か。
西郷隆盛は藩士、下級藩士ではあるが藩士だった。清河八郎は酒井藩に仕えた訳ではない。郷士と言う武士と百姓の間、坂本龍馬もそうだったが、清河八郎は「郷士には身分と言う天井が無い。」と幼い時に言っている。いろんな動きが藩士より比較的楽で自由だった。その反面、組織をどういう風に動かすかと言うことに余り長けてはいなかった。故に、西郷隆盛とは組織の動かし方が違っていた。
それから、何と言っても西郷隆盛は明治維新を起こした薩長、薩摩の出身で、清河八郎は、賊軍とされた庄内藩の出身だったと言うのが、名前の差と言うものに影響しているのではないかと考えている。
勝てば官軍と言いますが、庄内では逆に官軍とは言わないで官賊と言う。あっちの方が賊軍ではないかと思っている感がある。
また西郷隆盛は、いわゆる薩長史観に基づいて語られてきた。明治維新を起こした側、歴史の勝者であり、また西南戦争で敗れたことによって歴史の敗者でもあった。この二つの側面が、大きな人気の側面でもあった。
清河八郎は、歴史的な勝敗と言うものにちょっと関係がない。その前にして殺されてしまったと言うことになる。
歴史が正しいか、正史と言うものは大体勝者が書く。薩摩、長州と言うものが明治維新を成し遂げたと言うことになっているので、賊軍と言う側の歴史は消されていくのです。
歴史の正史の中に清河八郎を押し立てていく場合には、勝者が書く歴史が正しいのではないと言う異議申立ての中に、それぞれの歴史観の変換を迫らなければならない困難さがある。
Ⅱ 司馬遼太郎と藤沢周平の対照的八郎観
司馬遼太郎は清河八郎のことを山師とか出世主義者とか書いている。何故そんな表現が出て来るかと言うと、さっきの薩長の立場に立つ歴史観か、奥羽越列藩同盟、つまり賊軍とされた荘内藩の立場に立つかの違いがある。
司馬遼太郎は、薩長史観にたっており、倒幕を起こすと言いながら、天皇の名を利用して動き回った男として「奇妙なり八郎」と言う短編を書いた。
その山師と言う表現に憤激して藤沢さんは「回天の門」と言う長編を書いたと後書きで言っている。藤沢周平さんは自分のことを、”厄介おじ”と言っている。”厄介おじ”とは、長男でない次男、三男の男のことで、家督を継げないと言うことで厄介者とされていいた。
清河八郎は長男だが、歴史と言うものは武士が動かすと言うことに対し、清河八郎はその武士と言うものから自由だった。その自由は保証されない自由だったから、その厄介おじの立場から考えて、藤沢さんは共感して行ったのだろうと思う。
清河八郎が凄く親しくしていた人物に山岡鐵太郎(山岡鉄舟)がいる。彼が清河八郎についてこう書いている「彼は、百年に一人の英雄だと、ただ惜しいことに背景を持たぬ。我々には大公儀と言う背景がある。薩摩、長州の志士たちも藩の背景がある。そこへ行くと、あの男はたった一人だ。一人で天下の大事を成さんとすれば、あちらを騙し、こちらを騙し、とにかく芸が細かくなる。今少しあの男が英雄らしくなるまで生かしておいたらどうだろう。」
その背景を持たないと言うことがどういう事なのか、背景に拘った司馬遼太郎には見えなかったし、清河八郎のある種のアジテーターとしての魅力とか、あるいは、文だけでなく武にも優れていた。また妻「お蓮」と言うある種の悲運の女性を愛すると言う細やかなところが、背景と言うものを抜きにして人物評価を行ってきた藤沢周平さんには見えていたんだろうと私は思う。
これから清河八郎の明治維新への役割、行動の原点に触れる講演に続きますが、それは次回の報告とさせて頂きます。暫しお待ち願います。
Ⅲ 明治維新とは(王政復古)
Ⅳ 「不耕貪食の徒(ふこうどんじきのと)」安藤昌益
Ⅴ 清河八郎の可能性・大川周明、石原莞爾と比較して
06.22.16:52
「佐高信」氏特別講演会を新聞紙上で紹介してもらいました。
▼山形新聞
令和6年6月18日
▼荘内日報
酒田市出身の評論家「佐高信」氏が庄内町にやって来ます。
■演題は「清河八郎の真実に迫る」
■期日は7月15日(月・祝)
■会場は庄内町余目「響ホール」
住所:庄内町余目字仲谷地280
電話:0234-45-1433
■時間は午後2時開会です。
■入場料は無料です
※事前申し込みが必要です。
■定員は先着順で300名です。(定員になり次第締め切ります。お早めに申し込みください。)
■申し込みは公益財団法人清河八郎記念館
〒999-6606 山形県東田川郡庄内町清川字上川原37
0234-57-2104(FAX兼用ですが、休舘日の月曜日及び開館中の午前10時から午後5時以外は、呼び出し電話に切り替わりますので受信できません。)
▼記念館mail
又は清川まちづくりセンター
〒999-6606 山形県東田川郡庄内町清川字花崎1-2
0234-57-2211・FAX0234-57-2212
▼清川まちづくりセンターmail
いずれのメールもファイル添付はしないでください。件名を「佐高信講演会希望」とし、次の確認事項を直接本文に打ち込んでください。
申し込み時に確認する事項
①氏名[漢字表記しませんので呼び方だけ(カタカナでも、ひらがなでも可)お願いします。]
②住所(山形県の方は市町村名を、県外の方は都道府県名と市町村名をお願いします。)
③連絡先(日中通話可能な電話番号をお願いします。)
講師紹介
▼佐高信氏
掲載許可済み
山形県酒田市出身。
1945年1月、酒田市に生まれ山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、県内の高校教師を務めたのち上京、経済誌編集長を経て評論活動に入る。
メディアへの出演も多く、社会を鋭く捉えた評論で知られている。東北公益文科大学客員教授。
06.11.20:53
「佐高信」氏を迎え講演会を開催します。
■演題は「清河八郎の真実に迫る」
■期日は7月15日(月・祝)
■会場は庄内町余目「響ホール」
住所:庄内町余目字仲谷地280
電話:0234-45-1433
■時間は午後2時開会です。
■入場料は無料です
※事前申し込みが必要です。
■定員は先着順で300名です。(定員になり次第締め切ります。お早めに申し込みください。)
■申し込みは公益財団法人清河八郎記念館
0234-57-2104(FAX兼用ですが、休舘日の月曜日及び開館中の午前10時から午後5時以外は、呼び出し電話に切り替わりますので受信できません。
▼記念館mail
又は清川まちづくりセンター
0234-57-2211・FAX0234-57-2212
▼清川まちづくりセンターmail
いずれのメールもファイル添付はしないでください。「佐高信講演会希望」のタイトル表記をし、次の確認事項を直接本文に打ち込んでください。
申し込み時に確認する事項
①氏名[漢字表記しませんので呼び方だけ(カタカナでも、ひらがなでも可)お願いします。]
②住所(山形県の方は市町村名を、県外の方は都道府県名と市町村名をお願いします。)
③連絡先(日中通話可能な電話番号をお願いします。)
講師紹介
▼佐高信氏
掲載許可済み
山形県酒田市出身。
1945年1月、酒田市に生まれ山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、県内の高校教師を務めたのち上京、経済誌編集長を経て評論活動に入る。
メディアへの出演も多く、社会を鋭く捉えた評論で知られている。東北公益文科大学客員教授。